1. FCケルン | 日本人海外移籍の先駆者、奥寺康彦
【@1FCKoeln】
奥寺は、日本人初のプロサッカー選手として海外で活躍し、ドイツ・ブンデスリーガでその名を刻んだ選手だ。特に1.FCケルンでのキャリアは、多くの日本人選手にとっての道しるべとなった。その功績は人気サッカー漫画「キャプテン翼」にも記され、主人公の大空翼は対人で勝利できなかった数少ない相手としても知られている。現役引退後も日本サッカー界の発展に深く携わっており、今もなお日本サッカー界を支える存在となっている。
ケルン時代の挑戦と成功
1977年、日本代表がドイツで合宿を行った際、当時の代表監督である二宮寛氏が、ケルンの監督を務めていたヘネス・バイスバイラー氏と親交があったことから、奥寺がケルンの練習に参加する機会を得ることができた。バイスバイラー氏は現在、ケルンのマスコットであるヤギの名前の由来としても知られている。
スピードのある左ウィングを欲していたケルンが奥寺に興味を持ち、オファーを出した。言語の壁を懸念し一度は断ったオファーだったが、バイスバイラー氏をはじめ、多くの人々の後押しから移籍が実現した。
しかし当時、日本はプロサッカーリーグはまだ存在せず、海外移籍の例はほとんどなかった。その未知の挑戦に身を投じ、初年度からリーグ戦25試合に出場を果たす。特に1977-1978シーズンには、ケルンのブンデスリーガとDFBポカールの二冠達成に貢献。UEFAチャンピオンズリーグの前身、UEFAチャンピオンズカップに出場し、アジア人初となるゴールも決めている。
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ケルン退団後
安定感があり、献身的な奥寺のプレースタイルはドイツで高く評価され、ゴールキーパー以外ほぼ全てのポジションでプレーできることから彼の「東洋のコンピューター」として称賛された。
当時の自身のプレースタイルを奥寺はブンデスリーガが過去に行ったインタビューでこう答えている。
「若い頃は前線でプレーすること、点を取ることが好きでしたし、スピードもそれなりにあったのでウイングは合っていたと思います。でも年齢を重ねるうちに、後ろのポジションもいいな、と思い始めました。相手のプレッシャーが少ない分、後ろのほうがうまくプレーすることができたんです。とにかく、どのポジションでも新しい発見があって面白かったですね。」
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現役引退後の活動
引退後は日本へ帰国し、古巣である日産自動車サッカー部(現・横浜F・マリノス)でコーチを務めた。その後、日本サッカー協会のテクニカルディレクターや日本代表のアシスタントコーチとしても活動。引退後も日本サッカーの発展に寄与している。2006年からはJリーグの横浜FCで取締役を務め、現在はクラブの会長職を担い、自身の経験を活かし、若手選手の育成に力を入れている。
同インタビューで自身の挑戦についてこう振り返っている。
「ドイツでやっていた頃はあまり考えたことがなかったんですが、日本に帰って来た時に協会が初めてスペシャル・ライセンス・プレーヤー(事実上のプロ選手)として認めてくれました。日本の選手のプロ化のきっかけを作れたことが、ドイツで9年間やってきたことの意義なのかなと思います。」
奥寺が日本サッカー界に残したものは、海外サッカーへの挑戦の道筋だけでなく、一人のサッカー選手としての強い精神力やメンタリティ、そして模範となるロールモデルという存在だ。ケルンでは槙野智章、大迫勇也、長澤和輝が一番の例だ。がまた、プレーヤーとしてだけでなく、指導者や経営者としても多大な貢献を果たしている奥寺の軌跡は、日本サッカー界にとって大きな財産だ。
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