【オリンピックトリビア】日本人初の金メダリストの職業
【オリンピックトリビア】日本人初の金メダリストの職業(1928年アムステルダムオリンピック陸上三段跳び。織田幹雄の金メダルの跳躍) 【写真:Adobe Stock】
2024年パリオリンピック。連日の日本人選手の活躍、限界に挑戦する姿は勇気と感動を与えてくれます。そんなオリンピックをより楽しむために、オリンピックの歴史を通したトリビア・雑学クイズをご用意しました!きっと家族、友人、同僚などに話したくなる「へぇ~」が沢山あるはずです。
Q, 1928年アムステルダム大会で、陸上・三段跳びの織田幹雄が日本人初の金メダルを獲得。当時の職業は?
① 大阪朝日新聞社運動部の記者
② 早稲田大学の学生
③ 陸上の指導者
④ 当時は珍しいプロアスリート
② 早稲田大学の学生
③ 陸上の指導者
④ 当時は珍しいプロアスリート
正解は?
正解:② 早稲田大学の学生
金メダル獲得時は、早稲田大学商学部の学生で競技に打ち込んでいました。織田は1924年パリ大会に三段跳びで出場し、14m35(当時の日本新記録)を記録、日本陸上初の入賞(6位)を果たしています。織田はこの大会、三段跳び以外にも、予選敗退したが走り幅跳び・走り高跳びでも出場しています。早稲田大学競走部主将も務めました。
なお、織田は優勝決定後、閉会式を待たずアムステルダムを離れます(当時、メダル授与式は閉会式後に行われた)。国際学生競技大会が始まっており、これに出場するべく開催地・パリに向かったためです。代わりに競泳200m平泳ぎで金メダルを獲得した鶴田義行が織田のメダルも受け取ったという、とても珍しい出来事もありました。
早稲田大学卒業を前に、朝日、毎日両新聞社から入社の誘いがあり、遅れて読売新聞社からも正力松太郎社長直々に入社を依頼されました。海外遠征のおりに書き送った手記が分析力に優れ、文章も巧みだと高い評価を受け、各社からのあまりにも激しい入社要請に困り、一時、郷里・広島に雲隠れしたこともあったようです。
結局、知り合いも多かった朝日新聞を選び、大阪朝日新聞運動部記者となりました。運動部長まで務めることとなりますが、新聞記者として初めてオリンピックを取材したのは1956年メルボルン大会です。
日本の陸上、そしてスポーツ界に大きく貢献した織田の功績を称え、1967年から出身である広島で、例年4月に織田幹雄記念国際陸上競技大会が開催されるようになりました。
金メダル獲得時は、早稲田大学商学部の学生で競技に打ち込んでいました。織田は1924年パリ大会に三段跳びで出場し、14m35(当時の日本新記録)を記録、日本陸上初の入賞(6位)を果たしています。織田はこの大会、三段跳び以外にも、予選敗退したが走り幅跳び・走り高跳びでも出場しています。早稲田大学競走部主将も務めました。
なお、織田は優勝決定後、閉会式を待たずアムステルダムを離れます(当時、メダル授与式は閉会式後に行われた)。国際学生競技大会が始まっており、これに出場するべく開催地・パリに向かったためです。代わりに競泳200m平泳ぎで金メダルを獲得した鶴田義行が織田のメダルも受け取ったという、とても珍しい出来事もありました。
早稲田大学卒業を前に、朝日、毎日両新聞社から入社の誘いがあり、遅れて読売新聞社からも正力松太郎社長直々に入社を依頼されました。海外遠征のおりに書き送った手記が分析力に優れ、文章も巧みだと高い評価を受け、各社からのあまりにも激しい入社要請に困り、一時、郷里・広島に雲隠れしたこともあったようです。
結局、知り合いも多かった朝日新聞を選び、大阪朝日新聞運動部記者となりました。運動部長まで務めることとなりますが、新聞記者として初めてオリンピックを取材したのは1956年メルボルン大会です。
日本の陸上、そしてスポーツ界に大きく貢献した織田の功績を称え、1967年から出身である広島で、例年4月に織田幹雄記念国際陸上競技大会が開催されるようになりました。
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