早大バレー部男子 『令和5年度卒業記念特集』赤坂樹里
「献身」
早稲田大学を目指した理由の一つには、男子バレー部の存在があった。高校生の時にリーグ戦や全日本大学選手権(全カレ)を見た中で、最も自分の心に刺さったバレーをしていたのが早稲田だった。アナリストである今の自分から振り返ってみると、その魅力は言語化可能だ。「それしかできないからそうしているのではなく、戦略的に選択したシンプルなバレー」。当時もなんとなくそれを感じ取って、興味を持った。その年に早大が全カレで優勝したのも目の当たりにし、バレー部に入ることを見据えて進学を決めた。入学が決まると、早速入部に向けて動いた。入部のプロセスは明確ではなく、「これでいいのかな」と不安に覚えながらも、自ら部とコンタクトを取った。アナリストという仕事について詳細を知っていたわけではなかったが、「貢献度が高い仕事をしたい」と先輩からの勧めを受け入れてアナリスト職で入部した。
練習環境を整える仕事もあり、やること盛りだくさんな1年目が終了すると、アナリストはある程度の仕事ができるようになり、「自我を持ち始める」という。しかし赤坂としては、一つ先輩の小室麻由(令5政経卒)には仕事の丁寧さも要領も敵わないと実感しており、あまり自分の意思を強く出さずにいた。最上級生である小室と下級生のつなぎ役に集中する中で、多く部員が辞めていった。自分自身も辞めたいと思う時は何度もあった。上級生の方が求められる仕事のレベルは上がるが、1、2年生の間は特に目に見えて仕事量が多い。その仕事に慣れていないのもあって、辛いという気持ちがどうしても湧き出て、心を蝕んでいく。「自分の存在意義を問い続けて、自分がこのように行動すればチームの力になれているというゴールを見つけて、ギリギリ辞めない感じ」。赤坂自身はどちらかというと「辛い」と口に出すタイプであり、それを気にかける周りの言葉や同期の存在もあって続けられた。しかし周りのことに目を向けられる度量が足りていないと感じて、力不足感があった。この頃くらいから自分の周りの人達に対して「大丈夫だろうか」と常に気にするようになり、「心配性」になった。
自分が部にいる意味、すなわち「自分でなければできないこと」はずっと考え続けていた。「引退した今でもそれはわからない」と笑いながら語るが、「心配性でメンタルの弱い自分も部に居続けているということで、後輩たちは安心感を持ってもらえるのではないかな」と考えている。いろいろなことに気を回す赤坂に対し、「大丈夫ですって樹里さん」と後輩が応じる。そんな関係性が最適な温度感だった。
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