早大バレー部男子 『令和5年度卒業記念特集』赤坂樹里

チーム・協会
【早稲田スポーツ新聞会】記事 五十嵐香音、写真 五十嵐香音、町田知穂

「献身」

 アナリストとして、早稲田のデータバレーを支えた赤坂樹里(人4=東京・成蹊)。中高一貫校で6年間、プレーヤーとして活動していた彼女は、大学の4年間でどのようにバレーボールへの向き合い方を変化させたのか。

 早稲田大学を目指した理由の一つには、男子バレー部の存在があった。高校生の時にリーグ戦や全日本大学選手権(全カレ)を見た中で、最も自分の心に刺さったバレーをしていたのが早稲田だった。アナリストである今の自分から振り返ってみると、その魅力は言語化可能だ。「それしかできないからそうしているのではなく、戦略的に選択したシンプルなバレー」。当時もなんとなくそれを感じ取って、興味を持った。その年に早大が全カレで優勝したのも目の当たりにし、バレー部に入ることを見据えて進学を決めた。入学が決まると、早速入部に向けて動いた。入部のプロセスは明確ではなく、「これでいいのかな」と不安に覚えながらも、自ら部とコンタクトを取った。アナリストという仕事について詳細を知っていたわけではなかったが、「貢献度が高い仕事をしたい」と先輩からの勧めを受け入れてアナリスト職で入部した。

2022年全日本大学選手権での赤坂 【早稲田スポーツ新聞会】

 自分が見ていた春高バレーのスターたちが、同期で入部してくることは既に公表されていた。彼ら同士は今までの競技人生の中で何かしらのかかわりがあり、顔見知りではあった。その中に自分が一人、完全に外から入ってきた人間として、0からコミュニケーションを取っていかなければならない立場にあった。最初は「すごい人たち」と思い緊張しており、悩んだ時期はあったが、同期として過ごしていくことが決まっている以上、自分ができることはたくさん話して仲良くなることだけだと気づいた。兎に角、同期・先輩たちと積極的に会話をし、大学が始まる前の3月頃には既に、問題なくコミュニケーションが取れるようになっていた。しかしこの頃から、日本中で新型コロナウイルスが猛威を振るい、部活動できなくなっていた。その間は、毎日必ず試合のデータ入力をし、フィードバックを受けるということの繰り返しだった。並行してミーティングの資料作成の練習もしており、毎日、一日中忙しく過ごした。活動が再開すると、秋季関東大学リーグからは新入生のうち一人だけがデータ入力を担当することになった。当時選ばれたのは赤坂ではなく、非常に悔しかったと振り返る。逆転を狙って練習を続け、ついに全カレでデータ入力を任せてもらえる運びとなった。大会期間中は文字通り徹夜でデータの入力と修正に時間を費やした。

 練習環境を整える仕事もあり、やること盛りだくさんな1年目が終了すると、アナリストはある程度の仕事ができるようになり、「自我を持ち始める」という。しかし赤坂としては、一つ先輩の小室麻由(令5政経卒)には仕事の丁寧さも要領も敵わないと実感しており、あまり自分の意思を強く出さずにいた。最上級生である小室と下級生のつなぎ役に集中する中で、多く部員が辞めていった。自分自身も辞めたいと思う時は何度もあった。上級生の方が求められる仕事のレベルは上がるが、1、2年生の間は特に目に見えて仕事量が多い。その仕事に慣れていないのもあって、辛いという気持ちがどうしても湧き出て、心を蝕んでいく。「自分の存在意義を問い続けて、自分がこのように行動すればチームの力になれているというゴールを見つけて、ギリギリ辞めない感じ」。赤坂自身はどちらかというと「辛い」と口に出すタイプであり、それを気にかける周りの言葉や同期の存在もあって続けられた。しかし周りのことに目を向けられる度量が足りていないと感じて、力不足感があった。この頃くらいから自分の周りの人達に対して「大丈夫だろうか」と常に気にするようになり、「心配性」になった。

4年生対談での赤坂(右)。全く違う考え方をする5人の同期の存在が支えだった。なにか相談をすると、全く違う答えが返ってくるという 【早稲田スポーツ新聞会】

 そして迎えたラストイヤー。4年生全体が「優しすぎる」と怒られる場面はあっても、部を辞めてしまう人を少なくできたのはよかったと振り返る。アナリスト陣は、2年生で入部をした中澤彩恵(人新4=埼玉・青学大浦和ルーテル学院)や前年は選手をしていた横山颯大(教新3=東京・早実)に加え新入生がおり、非常に若い顔ぶれとなった。経験の少ない彼らに対し、自分が今まででしてきた辛い思いや失敗はなるべく味わってほしくないと考え、常に先回り、先回りをしてあらゆる方面に意識をしていた1年だった。学生最後の大会となる全カレでは、会場の近くに1週間泊まっていた。部員たちと試合以外でも一緒に過ごす時間が多く、頻繁にやりとりしていたこともあって、最も自分が貢献できたと感じることができた大会期間だった。それまでの3大会では勝っても「勝ったな」と第三者の目線に感じてしまっていたが、「自分事」として捉えられたという。スタッフとしていつも一歩引いた立場にいた赤坂だが、表彰式では同期の横に並び、トロフィーを受け取る機会を得たことで思わず涙があふれた。

 自分が部にいる意味、すなわち「自分でなければできないこと」はずっと考え続けていた。「引退した今でもそれはわからない」と笑いながら語るが、「心配性でメンタルの弱い自分も部に居続けているということで、後輩たちは安心感を持ってもらえるのではないかな」と考えている。いろいろなことに気を回す赤坂に対し、「大丈夫ですって樹里さん」と後輩が応じる。そんな関係性が最適な温度感だった。

2023年全日本大学選手権表彰式にて、トロフィーを受け取る赤坂 【早稲田スポーツ新聞会】

 卒業後の赤坂は不動産系の会社に就職し、都市開発に関わっていくことになる。社会人になるにあたり、バレーボールに第一線で関わるようなイメージはなかった。ただ、「大好きなスポーツには関わりたい」とスポーツ施設を建設する企業やスポーツを中心とした街づくりをしている企業に興味を持った。「バレーボールができる体育館でもいいし、他競技でもいい。スポーツをやる人も見る人も、楽しめるようなスポーツ施設を自分がつくる側として携われたら・・・」。高校生までは自分が主体、プレーヤーとして「周りにお膳立てしてもらっている感」があったという。しかし大学に入ってからは人を支える立場として、「選手など周りのコンディションにまで目を配れるようにならないとダメだ」というような考えに変わっていった。今度は、どちらの目線も知りながら、「創る」側になる。
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著者プロフィール

「エンジの誇りよ、加速しろ。」 1897年の「早稲田大学体育部」発足から2022年で125年。スポーツを好み、運動を奨励した創設者・大隈重信が唱えた「人生125歳説」にちなみ、早稲田大学は次の125年を「早稲田スポーツ新世紀」として位置づけ、BEYOND125プロジェクトをスタートさせました。 ステークホルダーの喜び(バリュー)を最大化するため、学内外の一体感を醸成し、「早稲田スポーツ」の基盤を強化して、大学スポーツの新たなモデルを作っていきます。

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