【箱根駅伝トリビア】日本人初の冬季オリンピアンは、元祖・山の神
1928年 サンモリッツ冬季大会 スキー日本チーム(右から二人目が麻生武治) 【写真:フォート・キシモト】
2024年1月2日・3日。お正月の風物詩となった箱根駅伝が、遂に「100回」を迎えます。これまでに多くの選手が世界に飛び立ちました。しかし、長年根元から「ささえた」方々が存在したからこそ、100回を数えるのです。箱根駅伝の”裏側”を辿り、100回の歴史を【箱根駅伝トリビア】として振り返ります。
文:佐野 慎輔(笹川スポーツ財団 理事/尚美学園大学スポーツマネジメント学部 教授)
文:佐野 慎輔(笹川スポーツ財団 理事/尚美学園大学スポーツマネジメント学部 教授)
麻生武治という”異能”
日本の冬季スポーツ史を語るとき、1人の異能な人物を忘れてはならない。その名を麻生武治(あそう・たけはる)という。
日本が初めて参加した冬季オリンピック、1928年第2回サンモリッツ大会に出場したオリンピアンである。同時に早稲田大学時代、第1回「箱根駅伝」に出場した草創期の名ランナーでもあった。
1920年に東京高等師範(現筑波)、早稲田、慶応義塾、明治の「四大校駅伝競走」として始まった箱根駅伝。第1回大会、早稲田の麻生は、5区を走った三浦、7区を担当し、後に副総理、農林大臣などを務めた河野一郎とともに中核メンバーを担っていた。そして9区を区間トップで走り、早大復路2位の原動力に。さらに翌1921年の第2回、1922年の第3回ではいずれも山登りの5区を走って連続区間賞を獲得。第3回大会では河野一郎、謙三(のち参議院議長)兄弟と早大初優勝に貢献するなど、まさに「元祖山の神」と言える活躍である。
日本が初めて参加した冬季オリンピック、1928年第2回サンモリッツ大会に出場したオリンピアンである。同時に早稲田大学時代、第1回「箱根駅伝」に出場した草創期の名ランナーでもあった。
1920年に東京高等師範(現筑波)、早稲田、慶応義塾、明治の「四大校駅伝競走」として始まった箱根駅伝。第1回大会、早稲田の麻生は、5区を走った三浦、7区を担当し、後に副総理、農林大臣などを務めた河野一郎とともに中核メンバーを担っていた。そして9区を区間トップで走り、早大復路2位の原動力に。さらに翌1921年の第2回、1922年の第3回ではいずれも山登りの5区を走って連続区間賞を獲得。第3回大会では河野一郎、謙三(のち参議院議長)兄弟と早大初優勝に貢献するなど、まさに「元祖山の神」と言える活躍である。
山に魅せられ、箱根から”冬の”オリンピックへ
麻生は、日本銀行理事を父にピアニストを母に、1899年東京・麻布区(現・港区)で生まれた。暁星中学(現・暁星高)から早大に進むと、1919年日本陸上競技選手権1500mを制し、競歩でも活躍した。箱根駅伝で輝かしい成績を残した麻生は、1922年、大学を卒業するとスイスに留学した。
山に魅せられ、恵まれた体力で山々を巡って登山家として活躍。1923年には日本人で初めてマッターホルン(ツムット稜)モンテローザに登頂した。この年9月の関東大震災で一時帰国したものの、すぐドイツ・ベルリンにあるプロイセン体育大学に留学。1925年にのちの日本山岳会会長松方三郎とともにベルーナアルプスの山々に登っている。1926年には松方や槇有恒らとともに秩父宮擁仁親王のアルプス登山にも同行した記録が残る。
その欧州滞在中、山々を巡りながらスキーの腕を磨いた。1926年には北海道帝国大学(現・北海道大)文武会スキー部の会報『山とスキー第六十一號』にチロルから寄稿。「スプルングラウフの研究」と題してジャンプの空中姿勢などを分析、解説してもいた。
欧州に居る麻生は、サンモリッツ大会で冬季オリンピックに初参加する日本スキー界にとっては願ってもない人材。ジャンプとノルディック複合、クロスカントリーの代表に選ばれて合流した。しかし大会本番ではいずれも転倒や途中棄権で失格、記録なしに終わった。ただ、英語に加えてフランス語、ドイツ語を操る麻生は通訳として活躍。世界との差を埋めるべく、技術や用具などの知識を日本にもたらす橋渡し役を務めた。
ちなみに広田戸七郎監督以下7人の選手団は北海道2人、新潟3人、長野1人と雪に縁の深い土地の出身。東京生まれの麻生がいかに異色の存在であったかが伺えよう。
山に魅せられ、恵まれた体力で山々を巡って登山家として活躍。1923年には日本人で初めてマッターホルン(ツムット稜)モンテローザに登頂した。この年9月の関東大震災で一時帰国したものの、すぐドイツ・ベルリンにあるプロイセン体育大学に留学。1925年にのちの日本山岳会会長松方三郎とともにベルーナアルプスの山々に登っている。1926年には松方や槇有恒らとともに秩父宮擁仁親王のアルプス登山にも同行した記録が残る。
その欧州滞在中、山々を巡りながらスキーの腕を磨いた。1926年には北海道帝国大学(現・北海道大)文武会スキー部の会報『山とスキー第六十一號』にチロルから寄稿。「スプルングラウフの研究」と題してジャンプの空中姿勢などを分析、解説してもいた。
欧州に居る麻生は、サンモリッツ大会で冬季オリンピックに初参加する日本スキー界にとっては願ってもない人材。ジャンプとノルディック複合、クロスカントリーの代表に選ばれて合流した。しかし大会本番ではいずれも転倒や途中棄権で失格、記録なしに終わった。ただ、英語に加えてフランス語、ドイツ語を操る麻生は通訳として活躍。世界との差を埋めるべく、技術や用具などの知識を日本にもたらす橋渡し役を務めた。
ちなみに広田戸七郎監督以下7人の選手団は北海道2人、新潟3人、長野1人と雪に縁の深い土地の出身。東京生まれの麻生がいかに異色の存在であったかが伺えよう。
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