【箱根駅伝トリビア】箱根を守る―危機を乗り越えた100回という金字塔

笹川スポーツ財団
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箱根を守る―危機を乗り越えた100回という金字塔 【写真:Adobe Stock】

2024年1月2日・3日。お正月の風物詩となった箱根駅伝が、遂に「100回」を迎えます。これまでに多くの選手が世界に飛び立ちました。しかし、長年根元から「ささえた」方々が存在したからこそ、100回を数えるのです。箱根駅伝の”裏側”を辿り、100回の歴史を【箱根駅伝トリビア】として振り返ります。

文:佐野 慎輔(笹川スポーツ財団 理事/尚美学園大学スポーツマネジメント学部 教授)
※2023年12月に、笹川スポーツ財団・公式ウェブサイトに掲載されたコラムの一部内容です。

年数と回数が一致しない箱根駅伝

箱根駅伝は、2020年に「100周年」を迎えた。しかし「96回大会」である。

年数と回数が一致しないのは、1940年第12回大会の東京招致に成功しながら返上せざるをえなかったオリンピックと同様、日中戦争から第二次世界大戦に続く戦禍の拡大による中断にほかならない(注:オリンピックは中止された大会も回数として数える)。

1940年に第21回大会が開催されたものの41、42年大会は中止、41年に2度代替大会として明治神宮水泳場前と青梅熊野神社を往復する「東京青梅間大学専門学校鍛錬継走大会」が実施されている。ただこの代替大会は箱根駅伝には含まれず、43年に「紀元二千六百三年 靖国神社箱根神社間往復関東学徒鍛錬継走大会」と戦時下らしい「神社への戦勝祈願」と「鍛錬」を掲げて実施された大会が戦時下唯一の箱根駅伝、第22回大会である。当時、学連幹事長を務めた中根敏雄は『箱根駅伝「今昔物語」』(日本テレビ編・文藝春秋)にこう述べている。

「箱根を走った先輩たちが次々に戦地で還らぬ人となっていく。私たちが継承しなければもう忘れられてしまうだろうと。とにかく箱根駅伝の伝統を残さなくちゃいけない。その一心でしたね」

しかし44年から46年までは戦争末期と戦後の混乱のため再び中止。ようやく1947年、「東京箱根間往復復活第1回大学高専駅伝競走」の名称で再開にこぎつけた。まだまだ日本は連合国軍総司令部(GHQ)の統治下に置かれており、国内は窮乏生活を強いられ、食糧事情も悪化していた。復活に向けてGHQと交渉を重ねた大会関係者の努力は想像を絶するものがある。

学連幹事長だった高橋豊は『箱根駅伝「今昔物語」』にこう語った。

「やるんだったらね、よし、パンツ一丁になって東海道を走ろうじゃないかと。日本は戦争に負けたんだけども、まだまだ日本を再建する者はいるんだよと。で、みんなに見してやろうじゃないかと」

「みんな家からお米を持ってきたわけですよ。とても配給じゃ食えません。走れませんよ。だってどんぶりの中に米粒が浮かんでいて、それをすすっていた時代ですもんね。でも、やってできねえことはないんだもの」

この47年大会こそ第23回大会であった。

いま、そうした先人の足跡をたどるにつけ、平和ということ改めて考える。あの金栗が箱根駅伝を発案したのは、ストックホルム大会の雪辱を期すべくトレーニングに明け暮れた1916年第6回ベルリンオリンピックが第一次世界大戦のために中止された後であった。全盛期に国際舞台で走れなかった箱根駅伝創始者である金栗四三の思いも「箱根」には凝縮されている。
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著者プロフィール

笹川スポーツ財団は、「スポーツ・フォー・エブリワン」を推進するスポーツ専門のシンクタンクです。スポーツに関する研究調査、データの収集・分析・発信や、国・自治体のスポーツ政策に対する提言策定を行い、「誰でも・どこでも・いつまでも」スポーツに親しむことができる社会づくりを目指しています。

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