【箱根駅伝トリビア】誕生秘話。最初は「アメリカ大陸横断駅伝」だった…?

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箱根駅伝は、当初は「アメリカ大陸横断駅伝」だった…? 【写真:Adobe Stock】

2024年1月2日・3日。お正月の風物詩となった箱根駅伝が、遂に「100回」を迎えます。これまでに多くの選手が世界に飛び立ちました。しかし、長年根元から「ささえた」方々が存在したからこそ、100回を数えるのです。箱根駅伝の”裏側”を辿り、100回の歴史を【箱根駅伝トリビア】として振り返ります。

文:佐野 慎輔(笹川スポーツ財団 理事/尚美学園大学スポーツマネジメント学部 教授)
※2023年12月に、笹川スポーツ財団・公式ウェブサイトに掲載されたコラムの一部内容です。

箱根駅伝とオリンピックの密接な関係

箱根駅伝が初めて開催されたのは1920年、大正9年までさかのぼる。

この年、世界では前年のベルサイユ条約締結によって第一次世界大戦の処理を完了、国際連盟が創設された。日本は創設メンバーとして加盟している。また、ベルギーのアントワープで第7回オリンピック競技大会が開催され、テニスの熊谷一弥と柏尾誠一郎によってシングルス、ダブルスで2個の銀メダル、日本最初のオリンピック・メダルを獲得している。

箱根駅伝の創設は、そのオリンピックと深く関わっていた。

日本が初めてオリンピックに参加した1912年ストックホルム大会で、マラソンに出場した金栗 四三は熱中症のため27km手前で意識を失った。予選会で世界記録を出し、意気揚々と臨んだ大会だったが、世界との差を痛感させられた。

帰国した金栗は「世界で通用する長距離走者を育成したい」と考える。「日本人の体力の不足を示し、技の未熟を示すものなり」と嘆息した金栗が「粉骨砕身してマラソンの技を磨き、もって皇国の威をあげん」と後輩の長距離走者養成を掲げ、駅伝大会開催に思いをめぐらせていく。

啓示を与えたのが、1917年に読売新聞社が主催した東京奠都(てんと)50周年を記念する『東京奠都五十年奉祝・東海道駅伝徒歩競走』。東軍、西軍2チームが京都・三条大橋から東京・上野不忍池まで、約516kmを23区間に分け、3日間かけて走り継いだ。このとき、勝利した東軍のアンカーが東京高等師範学校(東京高師、後に東京教育大学、現・筑波大学)生の金栗だった。

1919年、金栗は友人で後輩でもある東京高師教員の野口源三郎、明治大生・沢田英一と語らい、箱根駅伝構想をまとめていく。当初は、夢を大きく「アメリカ大陸横断駅伝」を考えたが、さすがに後援するところはなく断念。自身と野口の母校東京高等師範学校と沢田の母校明治大学に早稲田大学、慶應義塾大学を加えた「四大校駅伝競走」を企画考案し、東京と箱根間を結ぶ駅伝競走を報知新聞社が後援することになった。

このとき1920年。箱根の始まりである。

オリジナル4(フォー)

第1回大会は1920年2月14、15の両日、早稲田、慶応義塾、明治、東京高師(現・筑波)の「四大校駅伝競走」として実施された。この4大学は「オリジナル4(フォー)」と呼ばれる。授業があるため、2月14日午後1時に東京・有楽町の報知新聞社前をスタート、箱根到着は午後8時半をまわり、地元の人たちはかがり火を焚いて選手を誘導した。往路のゴールに最初に飛び込んできたのは明大、しかし、翌日の復路を東京高師が制し、記念すべき最初の優勝校となった。

これ以降、オリジナル4を中心に参加校も増えて、規模も大きくなっていく。戦時中の1941、42、44、45年、戦後すぐの46年は開催されなかったが、47年以降、読売新聞社主催として毎年実施されている。43年は「靖国神社-箱根神社間往復関東学生鍛練継走大会」として開催、これを第22回として数える。

また発着は当初は西銀座、やがて大手町に定着。さまざまな変化を経て、今日に至る。

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著者プロフィール

笹川スポーツ財団は、「スポーツ・フォー・エブリワン」を推進するスポーツ専門のシンクタンクです。スポーツに関する研究調査、データの収集・分析・発信や、国・自治体のスポーツ政策に対する提言策定を行い、「誰でも・どこでも・いつまでも」スポーツに親しむことができる社会づくりを目指しています。

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