湘南ベルマーレ連載 Jリーグ加盟30周年企画「共に歩んだ30年」【上】
2000年、平塚競技場にて。右から2番目が眞壁潔会長、その左隣は河野太郎大臣 【(C)SHONAN BELLMARE】
湘南ベルマーレの歴史を振り返るとき、その存在は誰より欠かせまい。現代表取締役会長・眞壁潔。ホームタウンの神奈川県平塚市に生まれ育ち、縁に導かれるように生まれ故郷のクラブと歩みをともにしてきた。存続危機やJ2降格、悲願のJ1復帰など、逆風も順風もつねに最前線で受け止め、向き合ってきたその半生をひもときながら、ベルマーレが歩んできた30年とこれからに想いを馳せる。
1994年、国立でのJリーグ初陣 【(C)SHONAN BELLMARE】
初めて我が街のクラブの試合を観たのは1993年の秋口の頃だったと眞壁は記憶している。サンフレッチェ広島を平塚に迎えたヤマザキナビスコカップ、延長Vゴールでベルマーレ平塚が勝利した一戦で、とりわけ右サイドをアグレッシブに上下動する金髪のプレイヤーに目を奪われた。名良橋晃という名の選手だと、のちに知った。
Jリーグが開幕したその年、ベルマーレはJFL1部を制し、晴れてリーグ入会を勝ち取った。そうして翌1994年、初陣の相手は、三浦知良やラモス瑠偉などスター選手を数多く擁するヴェルディ川崎だった。相手のホームである国立競技場に臨むと、ベルマーレは1対5の大敗を喫した。
1994年、「湘南の暴れん坊」と呼ばれたベルマーレ平塚 【(C)SHONAN BELLMARE】
我が街のクラブの戦いぶりは痛快だった。くだんのヴェルディ戦に始まった前期のサントリーシリーズではリーグ最多失点を記録したが、後期のニコスシリーズでは守備を改善し、攻撃においてはベッチーニョと野口幸司の2トップを中心にリーグ最多タイの得点を重ねて2位に躍進した。さらに同年度には天皇杯優勝を果たし、名良橋と岩本輝雄の両サイドバックのオーバーラップに象徴されるその攻撃的なスタイルをして「湘南の暴れん坊」と称された。
老若男女がスタジアムに集うことが日常に 【(C)SHONAN BELLMARE】
その後大学に入り、自動車部の活動に没頭すると、F1やラリーなどのモータースポーツを通じて、欧州の文化に対する興味はさらに増した。そんな自身にとって、モータースポーツ以上に国民に浸透し、地域に根付いているサッカーの有りようは、とても素敵なものに思えた。
1998年には4人の選手がフランスW杯へ。注目の的となった中田英寿 【(C)SHONAN BELLMARE】
クラブの存続危機が耳に飛び込むのは、その矢先のことだ。
1968年に藤和不動産サッカー部として創部、以降フジタ、ベルマーレへ 【(C)SHONAN BELLMARE】
「藤和不動産サッカー部」として栃木県那須町で産声を上げ、1975年に「フジタ工業サッカー部」に改称して平塚に移転した。その後、日本リーグや天皇杯を制すなど実績を重ね、「ベルマーレ平塚」としてJリーグの舞台に辿り着いた。
1998年秋、フジタが撤退を表明。クラブは窮地に 【(C)SHONAN BELLMARE】
吉野稜威雄・平塚市長は早くからベルマーレを存続させる意向を表明して地域の人々の不安を拭い、「存続検討委員会」を設置した。地元選出の国会議員である河野太郎も水面下で調整に走り、以前より親交のあった眞壁は河野に協力を請われて存続検討委員会に加わった。
地域、サポーターによる必死の存続運動が展開された 【(C)SHONAN BELLMARE】
「フジタのおかげで当たり前のように存在しているけれど、地方のクラブがJリーグ入りするための苦労や費用、パワーは相当なもの。潰してしまったら二度とできない。地元平塚の名を冠し、地域の財産であるベルマーレを失うわけにはいかない」。さまざまな立場にありながら、皆の想いは共通していた。
眞壁もまた資金をかき集めるべく奔走した。頭を下げてお願いするばかりだったが、地元の名士たちは「地域のためにやりなさい」と口を揃えてクラブの存続を応援してくれた。東京から戻り、忙しく駆けずり回る日々のなかで、我が故郷はいい街だとあらためて思った。
そうしたさまざまな尽力のもと、1999年11月にベルマーレの存続が発表された。親会社を持たない市民クラブとしての再出発は、Jリーグはもとより、日本のプロスポーツ界においても例のない、未知なる挑戦の幕開けでもあった。
※第2回に続く
文・隈元大吾
存続危機は「未知なる挑戦の幕開け」だった 【(C)SHONAN BELLMARE】
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