【ベガルタ仙台】BEST MATCH の過去も、眼前の目標に向かう今も、梁勇基は明るい未来に向けて駆け抜ける

ベガルタ仙台
チーム・協会

Jリーグが戻ってきた、あの試合

東日本大震災の被害を受けた方々への黙とうを行った 【©VEGALTA SENDAI】

 1993年にJリーグが開幕してから30周年を迎えた5月15日のこと。【J30ベストアウォーズ BEST MATCH】として、数多のJリーグ名勝負から、ひとつの試合が選出された。それはタイトル争いでもないし、残留争いでも昇格争いでもない。ダービーマッチでもない。開幕戦でも最終節でもない。

 2011年4月23日に開催されたJリーグディヴィジョン1 第7節 川崎F 1-2 仙台。

 東日本大震災によって中断していたJリーグが、この日に再開。等々力陸上競技場で開催されたこのカードは、前半にホームの川崎Fが先制したが、後半に仙台が2得点し逆転勝ち。だが、そうした経過報告や公式記録だけでは伝わらないものが、この試合には詰まっている。

今もチームを牽引し続ける梁勇基 【©VEGALTA SENDAI】

 「このクラブ、そして自分のサッカーのキャリアの中でも2011シーズンは強く印象に残っている1年でした。あの試合が30周年の BEST MATCH に選ばれたことをすごく光栄に思います」このように受賞を喜んだのは、ベガルタ仙台の梁勇基。この試合でキャプテンマークを巻いてフル出場し、決勝点をアシストするなど活躍。勝利に貢献した選手だ。このピッチに立った当時の仙台の選手で、現在も仙台の地でプレーしているのは梁のみ。

 「東日本大震災があって、そこから再開して最初の試合。そこに出場できたこと、なおかつ勝つ姿を見せることができたので、印象に残っています」と振り返るように、梁をはじめ、仙台の選手・スタッフにとって、この試合に出ること自体に、通常と違う困難があった。2011年の3月11日は、同年のJ1第2節を翌日に控えていたときだった。試合前日の練習を終えたあとに、梁ら当時の仙台所属選手・スタッフは被災。ホームタウンが大きな被害に遭い、翌日の試合が中止になったばかりでなく、生活そのものがどうなるかわからなくなった。

震災後チームは宮城県を離れ、関東でキャンプを張ることに 【©Seiro ITAGAKI】

 宮城県をはじめとした各地の甚大な被災状況が日を追うごとに明らかになる一方で、これから先の暮らしの見通しが立たない状態が続く。仙台の選手・スタッフたちにとっても、サッカーどころではなくなっていた。チームは一時解散。ライフラインも整わない中で各人は暮らし、3月28日に再集合。翌29日から練習を再開させたが、練習場の環境等を考え、苦渋の決断の末にチームは仙台を離れて関東でリーグ戦再開までキャンプを張ることになった。多くの方々の協力を得て、千葉県や埼玉県で練習を続け、この川崎F戦の日を迎えたのだった。

 等々力のアウェイサポーター席には、この状況下で会場に集まった多くの仙台サポーターがいて、声援を送った。彼らを迎える立場となった川崎Fも、それまで同様の様々な楽しい場外イベントに加え、「Mind-1ニッポン」のもと様々なおもてなしをした。被災地からこの地に避難していた方々も多くスタジアム入りし、試合前にはクラブOBから被災地を励ますメッセージが流れたり、川崎Fサポーターから激励の意味で仙台の応援歌が歌われたりという粋な計らいもあった。

大田吉彰の同点ゴール 【©VEGALTA SENDAI】

鎌田次郎の逆転ゴール 【©VEGALTA SENDAI】

 そしてキックオフとなれば、和やかな雰囲気はピリッとした真剣勝負の空気に切り替わる。いつもの、Jリーグの試合が戻ってきたことが、ここにも実感された。お互いに手加減なしで、これまで準備してきたことをぶつけ合う。川崎Fが流れるような攻撃から田中裕介のゴールで先制し、1-0で前半終了。しかし後半の仙台は諦めず攻め続け、太田吉彰が足を攣りながらも同点ゴールをねじこむ。さらに終了時間が近づいたところで、梁のFKに鎌田次郎がピタリと頭を合わせ、劇的な逆転ゴールを決めた。

「僕たち自身もそうですし、東日本大震災の被害に遭った方々にとっては、本当に不安の中での試合だったと思います」と、梁は当時の心境を語る。チームが再集合したあの3月28日に宮城県石巻市で津波による被害状況を目の当たりにし、以後も復興支援活動で被災地を回り、大きな傷跡が残ったことを実感した。関東キャンプに移ってからは、宮城の状況を心配しながら、どうなるかわからないリーグ戦再開に備えていた。心身ともに厳しいコンディション下で乗りこんだ等々力で、彼らはいつもと同じJリーグの温かさと、いつも以上のエネルギーを発した試合をやり抜いた。梁には使命感があった。「あの試合に勝てたことが自分たちの力になったのはもちろんですが、見てくれた人たちにとっても、あの試合をとおして何かを力に変えてもらえたなら、すごく大きな1試合になると思っていました」。自分たち以上に、誰かの力になれば。被災地から気持ちを届けていた人たちにも、あの日のスタジアムにいた人たちにも、中継を視聴していた人たちにも、どちらのサポーターでもなく何らかのかたちであの試合を知った人たちにも何かを届けられば、梁たちのメッセージは、この川崎Fと仙台の試合を通し、12年が経過した今も多くの人に伝わっている。

 試合自体も素晴らしいものだったが、そこに至るまでの様々な物語や、関わった人々の思いがある。それは BEST MATCH 選外となった他のすべての試合にも言えることだ。まず試合自体を振り返り、それにまつわる様々なピッチ内外の思い出を語る。そして、次の楽しみを呼びこむ。そこに、Jリーグが30年の歴史を紡いできた故の財産がある。

大分戦で今シーズン初出場を果たす 【©VEGALTA SENDAI】

 さて、この BEST MATCH の語り部となってくれた梁は、今年でプロ生活20年目を迎えた。Jリーグの生き証人のひとりである。2004年に練習生を経て仙台入りし、2006年からは背番号10をつけて仙台で主力としてプレー。2019年をもって、一度仙台との契約は満了となった。だが、人には時が経ち失われるものもあるが、経験を重ねることで得るものもある。その後に2年間プレーしていた鳥栖では、新しいかたちで体力強化や戦術眼を鍛えられたという。プレーの幅が広がった梁は2021年に仙台へ復帰し、現在はJ1昇格を目指すチームで仲間とともに汗を流している。

 梁は過去を振り返るだけではない。その過去の経験も力に、先を見続けている。今季の序盤戦は出番がなかったものの、チーム戦術の理解に努めるとともに、「今まで以上にがむしゃらにやりますよ」というキャンプでの宣言のままに、高い強度での戦術練習もなんなくこなして出番に備える。4月29日の明治安田生命J2第12節・大分戦で今季初出場を果たすと、仙台サポーターは感染症禍でそれまでできなかった応援歌“リャンダンス”を盛大に唄い踊って背番号10を迎えた。「(ウォーミング)アップのときから歌って、横に揺れてくれて、そこでもう気合いが入りましたよ」と笑う。またひとつ、梁にとって記憶に残るゲームが増えた。この大分戦で勝利に貢献したのちも、梁はいつものように練習に励み、得意のパスや、緩急をつけたボール保持、新しく身につけたポジショニングなど、彼にしかできない仕事を果たす。「しっかりトレーニングするところとしっかり休むところのメリハリをつけて、生活をしています」というのがコンディショニングの肝だという。「ゲームに少しずつ出ることで、さらにゲーム勘やコンディションは上がっているので、個人的には続けていきたい」と頼もしい背番号10は、ピッチ内外で仙台のチームを引き締める存在となっている。

仙台の象徴としてまだ走り続ける 【©VEGALTA SENDAI】

 あの記憶と記録に残る過去の試合も、眼前の目標に向けて力を尽くす現在の試合も、梁勇基は駆け抜ける。その先には、またいくつもの印象的な試合が、新しくJリーグ史に刻まれることだろう。


文=板垣晴朗
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著者プロフィール

1994年に東北電力サッカー部を母体とした「ブランメル仙台」として発足。1999年にチーム名を「ベガルタ仙台」に改め、J2リーグに参戦。 「ベガルタ」というクラブ名は仙台の夏の風物詩である七夕まつりに由来する。天の川を挟んで光輝く織姫(ベガ)と彦星(アルタイル)の2つの星の合体名で「県民・市民と融合し、ともに夢を実現する」という願いを込められている。地域のシンボルとして親しまれ、誇りとなり、輝きを放つことで広く地域へ貢献していく意味も含んでいる。 ホームタウンは宮城県全域。ホームスタジアムはユアテックスタジアム仙台。

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