【物語りVol.37】 SH 辰野 新之介「ブレイブルーパスの9番は辰野だ、と言われるぐらいに」
【東芝ブレイブルーパス東京】
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【物語りVol.37】 SH 辰野 新之介
「サッカー日本代表で活躍した中村俊輔さんが好きだったので、彼の出身校の桐光学園高等学校へ行きたかったんです。でも、色々と考えて、同じ神奈川県でサッカーの強い桐蔭学園に入りました」
意気揚々と入学したものの、強豪校ならではの現実を突きつけられる。サッカー部の入部希望者はセレクションを受けなければならず、辰野は入部を許されなかった。
「サッカー部に入れないと同好会へ行くんですけど、週に3回しか練習がない。バスケットボールとかやることも考えつつ、親父がラグビーをやっていたので自分もと思って、ラグビー部の同級生に聞いたら『練習は楽だよ』と。実際に行ってみるとホントに楽だったんですが、そのときはたまたまAチームが遠征だったから楽だっただけで」
タッチフットなどの練習を通して、辰野はチームメイトに名前を覚えられた。次の日も行かないわけにはいかなくなり、ラグビー部の一員となる。
ウイングからキャリアをスタートさせ、やがてスクラムハーフへ落ち着いた。「パスが下手過ぎて、2年で一度クビになった」ものの、3年時にはスクラムハーフのレギュラーとして花園の舞台に立つ。一学年下の小倉順平(現横浜キヤノンイーグルス)や松島幸太朗(東京サントリーサンゴリアス)らとともに、決勝まで勝ち上がった。
大学は早稲田へ進んだ。1、2年時はレギュラーに遠い立場だったが、3年時に初めてAチームに抜てきされた。対抗戦の初戦で公式戦デビューを飾るものの、その後はケガにも見舞われて試合に関われなかった。4年の夏合宿の時点ではもっとも下のチームまで序列を下げたが、対抗戦の早慶戦でリザーブ入りする。帝京大学との大学選手権でも、後半途中から出場した。
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「15年のW杯で日本が南アフリカに勝った試合を観て、プロでやりたい気持ちが芽生えたんですね。その気持ちがずっとあって、年齢的なことも考えて20年に行くことにしたんです」
先輩や同僚は、やめたほうがいいと口を揃えた。家族には猛反対された。早稲田大学で日本選手権優勝を経験し、日本代表にもなった父親は、ラグビー界にコネクションを持つ。業界の事情を知っているだけに、「プロになるなんて、何を考えているんだ」と強い口調で息子に迫った。
辰野は譲らなかった。人生で初めて、父親に反抗した。
「人生は一度きりだと考えたときに、思い切りラグビーをやりたいし、日本代表になりたかった。この環境に居たままでそれが達成できるのか。国内でトライアウトを受けてチームを探したのですが、見つからなかったらニュージーランドへ行こうと決めていました」
新型コロナウイルス感染症のパンデミックが迫る20年2月、辰野はオールブラックスを抱えるラグビー大国へ向かった。仕事をしながらラグビーに打ち込み、州代表のBチームに選ばれた。英語でのコミュニケーションのスキルも上げていった。
当初は1年で帰る予定だったが、もう1年滞在することにした。ラグビー選手としてだけでなく、人間として成長で来ている実感を得られた。
「20年、21年と向こうでやって、翌年も残る選択肢はあったんですが、興味があると言ってくれていたチームの構想が白紙になって、帰国することに決めました。そこで、僕を東京ガスに呼んでくれた方が薫田(真広)GMと仲が良くて、ブレイブルーパスさんのトライアウトを受けさせてもらい、採用していただきました」
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「いくつかのチームのトライアウトを受けましたが、すごく雰囲気が良くて一番いい印象を受けました。トライアウトの僕を、チームの輪のなかに入れてくれている感じがありました」
スクラムハーフでは共同主将の小川高廣とジャック・ストラトンを中心に、5人の選手が競い合っている。辰野はまだ、公式戦のピッチに立っていない。
「それぞれの選手に色があるので、やっていて面白いです。小川さんは一番の目標で、比べられるし、学べる。僕はまだブレイブルーパスでキャップがないので、自分の強みを磨いて早く試合に出たい」
会社員という安定した立場を捨て、異国へ飛び出す。そして、30歳を過ぎてラグビーで生計を立てる。安定志向とはかけ離れた決断の連続だが、辰野に悲壮感はない。あるのはまぶしいほどの純粋さだ。
「外から見ると大胆な決断でも、自分のなかではこれだというものがありました。会社を辞める、日本を離れる、1年で帰るのを2年にする、それらすべては、その時々で近くにいてくれた人たちが背中を押してくれて、怖さを感じることなく決断ができました。ステージごとに出会いに恵まれたんです」
一時はニュージーランド行きに猛反対した父親も、新たな旅立ちを快く見送ってくれた。「どこかで考えが変わったみたいで」と、辰野は喜びと安堵が混じったような表情を浮かべる。
「人生は挑戦するほうが生きるエネルギーが生まれるから、やれるだけやってみればいい、と言ってくれました。先が見えない時代だから、やりたいことを見つけて向かっていくほうが幸せだろうと、応援してくれています」
周囲への感謝の気持ちは、プレーで見せたい。紆余曲折を経て東芝ブレイブルーパス東京に辿り着いた31歳は、練習で自信を磨き上げる日々を過ごす。
「9番はチームの中心。ブレイブルーパスの9番は辰野だ、と言われるぐらいになりたいです」
(文中敬称略)
(ライター:戸塚啓)
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