女子フィギュアの系譜、12歳の小学6年生が蒔いた種 北京五輪
【1936年ガルミッシュパルテンキルヘン大会の稲田悦子(右から2番目) 写真:フォート・キシモト】
本文:佐野 慎輔(笹川スポーツ財団 理事/尚美学園大学 教授)
12歳の小学6年生が蒔いた種
1936年ガルミッシュ・パルテンキルヘン大会に冬季オリンピック日本人最年少出場した稲田悦子 【写真:フォート・キシモト】
1936年ガルミッシュ・パルテンキルヘン大会(ドイツ)に出場したときは、1924年2月8日生まれだから、わずか12歳0カ月に過ぎない。大阪市立菅南小学校(現・西天満小)6年生。日本の冬季オリンピック代表最年少記録として今なお残る。
小学2年生のとき、大阪朝日新聞社が新築した社屋屋上に設けたリンクでフィギュアに魅せられた。ヨーロッパから洋書を取り寄せては辞書と首っ引きで教える永井康三のもとで才能を開花。オリンピック前年の全日本選手権で優勝し、たった1人の女子オリンピック選手となった。「天才少女」は銀色のコスチューム、胸に赤い花をつけて舞い、大会の人気をさらった。出場26選手中10位、オリンピック3連覇を果たしたソニア・ヘニーが稲田の可能性を語ったとされる。
1936年ガルミッシュ・パルテンキルヘン大会開幕1カ月前の欧州選手権。観戦に訪れたドイツの領袖がわざわざ貴賓席からおりてきて練習を終えた稲田に握手を求めた。12歳の少女が小さな氷の妖精に見えたのだろうか。アドルフ・ヒトラーである。しかし、そのヒトラーと日本の軍部が彼女の未来を変えた。第二次世界大戦に向かう戦火と戦禍拡大による1940年、1944年大会の中止。復活した戦後初、1948年サンモリッツ大会にはドイツとともに日本は招待されなかった。
歴史に「もし」は許されないが、戦争がなければ、成長した彼女が氷の上に大輪の花を咲かせていたかもしれない。その意味では稲田もまた「戦争犠牲者」と言ってもいい。
1952年オスロ大会へのフィギュア選手派遣がなくなり、現役を引退、コーチの道を選ぶ。戦後、日本のフィギュア選手がオリンピックに戻ったのは60年スコーバレー大会。男子の佐藤信夫、女子の福原美和と上野純子の3人とも稲田の教え子だった。
やがて佐藤は佐野稔に始まり、娘の佐藤有香や荒川静香、安藤美姫、村主章枝、小塚崇彦、浅田真央ら世界の舞台で活躍した選手たちを教え、64年インスブルック大会5位入賞の福原も八木沼純子を育てた。審判員の道に進んだ上野は国際審判員となり、98年長野大会では審判宣誓。国際スケート連盟理事、日本オリンピック委員会理事などを歴任した。すべては稲田が蒔いた種の開花であった。
※本記事は、2022年2月に笹川スポーツ財団ホームページに掲載されたものです。
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