【日本野球連盟公式サポ通信】黒獅子旗のゆくえ(三菱重工広島編)

チーム・協会

【【提供】三菱重工広島野球部】

日本野球連盟公式サポーターの豊島わかなです。
社会人野球のちょっと裏側をお伝えする「日本野球連盟公式サポーター通信」をお届けします。
優勝チームの証である黒獅子旗のその後を、当時のエピソード共に振り返る人気企画「黒獅子旗のゆくえ」です。

初出場で初優勝の快挙を成し遂げたチーム

当時の黒獅子旗は、会社の応接室に飾られています 【【提供】三菱重工広島野球部】

昨年の都市対抗野球大会を最後に、惜しまれつつも長い野球部の歴史に幕を下ろした、三菱重工広島野球部。
戦後間もない1946年の創部で、1979年には中国地区連盟所属チーム初となる都市対抗優勝を成し遂げています。
今回は、優勝時に監督を務めていた、迫田守昭さんに当時のエピソードをうかがいました。

三菱重工広島元監督・迫田守昭氏 【【提供】毎日新聞】

迫田さんは、広島商高から慶大を経て、1968年に三菱重工広島に捕手として入社をしました。
その後1976年に31歳の若さで監督に就任すると、都市対抗初出場で初優勝にチームを導きました。

「優勝時の選手たちは、最高レベルでした。それまでは都市対抗に出場をすることが目標でしたが、地方大会で負けなしの状態が続いていたので、いつの間にか都市対抗で優勝をすることが目標に変わっていました。当時は30人に満たない少ない人数で、ベテラン中心のチームだったため、本戦で勝ち進んでも良い意味で落ち着きがありました。初出場の勢いだけで優勝したのではなく、冷静にプレーできたことが良かったのかもしれませんね」

ベテラン選手の底力が優勝のカギ

【【提供】三菱重工広島野球部】

決勝戦は、当時名門チームと言われていた熊谷組。
9回表まで2点リードをされる形で負けていたため、迫田さんはベンチで「準優勝で終わるのかな」と考えたりもしたそうです。

「ベンチでいろいろと作戦は考えていましたが、もうここまで来たら選手を信じて任せようと思い、何もしませんでした。ただ、あの時点で3点離されていたらどうにもならないけど、まだ2点差だったので、何とかなるかもしれないと希望がありました。まさかあの状況で逆転するとは思わなかったし、6連打には本当に驚きました。選手たちには感謝しかないですね」

当時、都市対抗本戦に出場できていなかったこともあり、どこのチームにも負けない過酷な練習に日々励んでいたそうです。
キツイ練習量を耐え抜いたことで、強い精神力につながったのでは、と迫田さんは分析します。
結果として追い込まれた場面での実力発揮ができたのは、「選手たちがくじけずについてきてくれたおかげ。それに尽きます」と振り返っていました。

「黒獅子旗を持った瞬間は、優勝の実感がなかったです。東京から広島駅に帰った時に、広島駅から会社までパレードをして行きました。本当にたくさんの人が集まってくれていたので、この時に優勝することの重みを感じましたね」

【【提供】三菱重工広島野球部】

コロナ禍のため、最後の都市対抗を東京ドームではなく自宅で観戦したそうです。
チームが年内で活動を休止することを知った時は、とてもショックでした、と話します。

「全力疾走、ヘッドスライディング、選手たちの目の輝き。画面を通してですが、本当に素晴らしい姿を見せてもらい、彼らの姿勢に感動しました。こんなに良いチームがなくなるのはとても惜しいです。移籍をして野球を続ける選手たちはあの時の気持ちを持ち続けていれば、きっと強くなれると思いました。三菱重工広島というチームはなくなってしまいましたが、これからも中国地方の社会人野球が盛り上がることを期待しています」

いよいよ来週3月8日からスタートする東京スポニチ大会を皮切りに、社会人野球のシーズンがスタートします。
今年もオリンピックの関係で、変則スケジュールでの大会開催となりますが、一つひとつの試合にたくさんのドラマがあるでしょう。
是非選手たちに、熱いエールを送ってくださいね!
  • 前へ
  • 1
  • 次へ

1/1ページ

著者プロフィール

1949年に設立した社会人野球を統轄する(公財)日本野球連盟の公式アカウントです。全国の企業、クラブチームが所属し、中学硬式や女子野球の団体も加盟しています。1993年から刊行している社会人野球オフィシャル・ガイド『グランドスラム』の編集部と連携し、都市対抗野球大会をはじめ、社会人野球の魅力や様々な情報を、毎週金曜日に更新する『週刊グランドスラム』などでお届けします。

新着記事

編集部ピックアップ

おすすめ記事(Doスポーツ)

記事一覧

新着コラム

コラム一覧

日本オリンピック委員会公式サイト

JOC公式アカウント