IOC委員・山下泰裕氏がオリンピックで体験したフェアプレーの精神「ケガした足を攻めてでも、正々堂々と」
【1984年ロサンゼルスオリンピック無差別級で金メダルを掲げる山下泰裕氏(写真提供:フォート・キシモト)】
1984年ロサンゼルスオリンピック無差別級で金メダルを獲得した、山下泰裕氏のエピソードを紹介します。
聞き手/西田善夫 文/山本尚子 構成・写真/フォート・キシモト
※本記事は2013年に「笹川スポーツ財団 スポーツ歴史の検証 」に掲載されたものです。
1984年ロサンゼルスオリンピック、2回戦で肉離れ
山下:ありますね。そのころまだ生まれていない人までもが、「山下さんじゃない?」と言う。なぜ自分のことを知っているのだろうと不思議に思っていたら、オリンピックが近づくたびに、過去の名シーンとして、ラシュワンとの試合が放映されているようですね。
2回戦のシュナーベル(西ドイツ)戦。この試合で肉離れを起こす。 【写真提供:フォート・キシモト】
山下:そうです。2回戦のシュナーベル(西ドイツ)戦でした。がっちり組み合おうとしないやりにくい相手で、やっとのことでつかまえて内股を放った瞬間、軸足の右足に異常を感じ、「しまった、やっちゃった!」と思いました。おまけにその内股は不十分でした。
平常心を貫けなかった思わぬ落とし穴
山下:いや、全然。初めてでした。試合前日、トレーナーの方に入念にマッサージをしてもらい、「完璧ですね」と言われていたほどです。私にとって最初で最後のオリンピック。ウォーミングアップも普段の倍近くやって臨んだはずが、思わぬ落とし穴があったのです。
―どのような?
山下:大会会場はすり鉢状になっていて、冷気が上から下りてきます。一番低いところにある試合会場はよく冷えているのに、試合場のすぐ隣の控え室にはエアコンがなくて暑いのです。私は一つ前の試合が始まったので、試合場に入りました。普通ですと体を冷やさないように何か着込んでいくところですが、どうせ3〜5分後には試合が始まると思ったので、「いらない」と言ったのです。
そうしたら、前の試合の選手がケガをし、5分間の試合が10分以上かかってしまいました。その待っている間に、足が冷えたのでしょう。普通だったら「まずいなあ」と思ってすぐ着込むのでしょうが、油断なのか、いや余裕がなかったのかもしれませんね。
負傷がバレたのなら、得意技の「開き直り」で
柔道会場となったカリフォルニア州立大ロサンゼルス校体育館 【写真提供:フォート・キシモト】
山下:「しまった」と思った直後、でも相手は異変に気がついていない様子でした。ともかく「この試合に勝たなければ」と考え、平静を装ったつもりでした。ケガのことは誰にも知られたくない。いつもと同じ表情で足をひきずらずに試合場を下りたはずの私を迎えてくれたのは、仲間の選手や先生方の「どうしたんだ?何が起きた?」「どこをケガしたんだ?」という声でした。
―ばれてしまっていたのですね。
山下:帰国後ビデオを見たら、顔も引きつっているし、だれが見ても「何かがあった」と感じたでしょうね。テレビ解説では、猪熊(功)先生の「足を引きずっていますね」なんていう声も入っていましたし。
「右腓腹筋(ふくらはぎ)裂傷」という自分の負傷・弱点がばれてしまったのは勝負では致命的なことなので、少し落ち込みました。ただ、もうすぐに次の試合があります。
気持ちを切り替えなければなりません。私もいろいろ修羅場をくぐり抜けてきた人間です。腹をくくって覚悟を決めると、肝が据わり、割と物事を冷静に見ることができるのです。「俺の一番の得意技は開き直りだぞ」と。
2回戦終了後、足を引きずりながら定位置に戻る 【写真提供:フォート・キシモト】
山下:周りにケガを知られたのなら、いくらでも足は引きずってかまわない。しかし、俺にできる最善を尽くそう。こんなケガに負けてなるものか。痛い顔はしない。相手を見据えて胸を張って試合をしよう、と心に決めました。
帰国後に聞いた話ですが、あのとき私の身の回りのことを手伝ってくれていた後輩が2人いました。彼ら曰く彼ら曰く「あの日の先生は、これまでにないくらい気合が入り、緊張しておられるような気がしました。でもケガのあと、柔和になったというか、変な力みが取れたのではないかと思いました」と。
―ほう。私はあのときテレビで見ていましたが、足を引きずりながらも、どこか悟ったような表情に思えた。大変な状況でありながら、あなたがとても冷静に感じられました。
わざと投げられることまで考えた決勝戦
山下:いつも試合前には、その試合の流れを読むメンタル・リハーサルを行います。勝てる可能性が一番高いストーリーをイメージし、その反対に、一番好ましくない展開のイメージもしておきます。ところがあの試合に限っては、どうやったら勝てるか何も浮かびませんでした。
私の恩師の佐藤宣践(のぶゆき)先生が日本チームの監督だったのですが、「泰裕、投げられろ」と言ったほどでした。
―その意味は?
山下:一本を取られなければいいのだから、わざと投げさせて、しがみついて寝技に持っていけばいい、ということです。当時、私の体重は126〜127キロありました。ひざを畳に着いてしまえば、軸足の右足には負担がかかりません。そこから寝技にもっていく方法があるぞと。
しかしさすがに、「一本!」と言われたらおしまいですからね。それではいくらなんでも悔いが残ります。そこで思ったのは、勝負において一度もチャンスがないまま終わるはずはない。チャンスを呼び込むために、これまで以上に胸を張り、相手を見据えて自分からつかみかかっていこうと決心しました。
―佐藤先生は何と言って送り出してくれましたか。
山下:「この試合で、俺とおまえの師弟関係を終わりにしよう」でした。つまり先生は、「人生最後の勝負だと思って行け」と言いたかったのだと解釈しました。
あとから聞いたのですが、佐藤先生は「山下も、古橋廣之進さんのようにオリンピックだけには縁がなかったのか…」という考えが頭をかすめたそうです。
―「フジヤマのトビウオ」と言われ、間違いなく世界一のスイマーとして戦後の日本に大きな希望を与えながら、全盛期にオリンピックの舞台に立てなかった古橋さんですね。
何があっても「一本」と言われるまで絶対に放さない
決勝でエジプトのラシュワンを「四方固め」で破る 【写真提供:フォート・キシモト】
山下:あの試合展開は予想外でした。ラシュワン選手のコーチは、日本人の山本信明先生でした。後日、お話を聞く機会があったのですが、ラシュワンは非常に心の優しい選手だと。私と同じ控え室でしたが、私のケガの様子を見ると情け心が浮かぶかもしれないからと、まず控え室を替えたということでした。
試合前のアドバイスでは、「ラシュワン、おまえは勝てる。あわてる必要はない。いつもどおりでいいが、1点だけ俺のアドバイスを聞け。最初の1分は、しっかりつかんで一切攻めるな。するとケガをしている山下は動揺するだろう。1分経ったらそこから思い切っていけ。そうすれば勝てる」。
―しかしラシュワンは早く勝ちたくて、その1分間が待てなかった…。
山下:そうです。もしラシュワンが山本先生の指示通りにしていたら、私は動揺して違う展開になったのではないかと思います。ところがラシュワンはやる気満々で、試合開始と同時につかみかかってきました。しっかり組み合って間もなく、彼が払い腰の技を仕掛けてきたのです。そのとき私は無意識のうちに、瞬時に体をさばきました。彼の技が空を切り、体勢が崩れたところを上から寝技の攻めに入り、抑え込んだのです。
―「チャンスだ!」と思った瞬間はどうでしたか。
山下:いやあ、もう10回やって1回、いや、100回やって2、3回あるかないかの試合展開でした。これを逃したら絶対にチャンスはない。何があっても絶対に放すもんか。火事になっても、爆破されても、審判が「一本」をとるまで何時間でも絶対に放さないぞと、そんな思いでしたね。
ラシュワン選手のフェアプレー
どうですか、一部ではラシュワンは傷めた右足を攻めてこなかったという言い方もされていましたが、私は彼にそのことで話を聞いたことがあるのです。彼は「フェアプレーと言われるのはうれしいが、それは違う」と言った。ああなるほど、彼はフェアプレー精神の持ち主だなと思いました。
山下:はい、ケガをした足を武士の情けで攻めてこなかったというのは誤解です。彼は何も遠慮はしなかった。右足だけを攻めるというような卑怯な手を使うことなく、真っ向からいつもどおりに堂々と向かって勝負してきてくれた。そのことこそが「フェアプレー」だったのです。
表彰式を前に感無量。左がラシュワン。 【写真提供:フォート・キシモト】
山下:ところがエジプト柔道界初のメダルだったにもかかわらず、ラシュワンは最初、えらい人たちにたたかれたそうですよ。応援に来られたエジプトオリンピック委員会や柔道連盟の会長さんに、「ケガをしている相手に手抜きをしたのではないか。コーチが日本人の山本先生だから、わざと負けるよう指示したのではないか」などと責められたそうです。
―それは気の毒でしたね。
山下:それが翌朝になると、ラシュワンのフェアプレーぶりが紹介されて、みんなの態度がコロッと変わり、「おお、ラシュワン、おまえはエジプトの、いや、アラブの誇りだ」となったそうです。彼には、後にユネスコ(国連教育・科学・文化機関)からフェアプレー賞が贈られました。
同じ目標に向け切磋琢磨し合うライバルだからこそ
山下:我に返ったら急に痛み出しました。表彰式では今と違い、優勝者から名前を呼ばれる時代でした。最上段へ上がるとき、ラシュワンは私を気遣って、さっと私の腕を支えてくれました。
―会場が割れんばかりの拍手に包まれた、いいシーンでしたね。
山下:それからケガをした試合で戦った西ドイツの選手が、その試合の直後、治療を受けている私のもとに来て、「ヤマシタ、大丈夫か。おまえのケガは俺のせいか?」と申し訳なさそうな顔で尋ねるのです。私は「いいや、おまえとは関係ない。すべて俺が悪いんだ。心配しないでくれ」と説明しました。すると彼は少しほっとした顔で、「そうか、痛いだろうけど頑張ってくれ。心から応援しているからな」と言ってくれました。
―ああ、彼も素晴らしいスポーツマンシップの持ち主ですね。
山下:オリンピックは、各選手が国の代表として誇りと名誉を懸けて戦う舞台です。同じ目標に向かって切磋琢磨しているライバル同士だからこそ、互いに尊敬の気持ちが持てるのですね。
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