創設100周年となる箱根駅伝。1920年、オリンピックをきっかけに始まった。
【2020年で創設100周年となる箱根駅伝。令和初の王者に輝くのは、どの大学か?】
箱根駅伝、創設100周年
第96回大会は、11月の全日本大学駅伝を制し、連覇をめざす東海大学を中心に、「5強」といわれる王座奪回を狙う青山学院大学、10月の出雲駅伝を制した国学院大学に上位常連の駒沢大学、東洋大学が実力伯仲して覇を競う。どこが勝ってもおかしくない状況で、エース伊藤達彦を中心に予選会をトップで駆け抜けた東京国際大学が台風の目になるのか。また26年ぶりに箱根路に戻ってきた筑波大学がどんな走りをみせるのだろうか。
筑波大学は第1回大会を制した前身の東京高等師範学校、東京教育大学以来、61回目の箱根出場となる。近年、国立大学というある意味のハンディキャップから有望選手獲得に後れをとり、箱根から遠ざかってきたが、OBであり数々の名選手を育ててきた弘山勉氏を駅伝監督に迎えて強化を図り、悲願の箱根路に返り咲いた。100年大会にふさわしい伝統校の奮闘を期待したい。
その箱根駅伝から東京オリンピックに2人のマラソン代表選手がうまれた。駒沢大学OBの中村匠吾と東洋大学OBの服部勇馬である。さらに3つ目の代表の椅子に最も近いのは早稲田大学出身の大迫傑であり、東洋大学出身の設楽悠太がこれを追う。いずれも、箱根を駆け抜けた走者たちだ。
箱根駅伝は「箱根から世界へ」という壮大な夢を掲げる。第1回大会出場の茂木善作(東京高等師範学校)、三浦弥平(早稲田大学)が1920年アントワープ大会代表に選ばれたのを始まりに、これまで76選手をオリンピックに送り出し、今回また2人、ないし3人がその列に加わる。まさに、箱根駅伝は日本の長距離走者の飛躍の場といってもいい。
箱根駅伝とはなにものか
それに答えるまえに、「箱根駅伝とはなにものか」を考えてみたい。
日本人は駅伝が好きである。秋から冬にかけて、高校、大学、社会人、都道府県対抗――さまざまなジャンルの全国大会が、それも男女それぞれ開かれている。小さな町村の対抗駅伝まで加えれば、ほとんど毎週のように駅伝大会が続く。そして、いまや国際的にも『EKIDEN』と認知されるまでになった。
往路5区で伴走車からの監督の激励を受け山登りに挑む選手(1968年1月) 【写真提供:フォート・キシモト】
沿道はのべ100万人もの見物客で埋まる。中継する日本テレビの平均視聴率は20%後半を堅持。東海大学が常勝軍団となっていた青山学院大学の5連覇を阻んで初優勝した2019年第95回大会は、1月2日の往路が30.7%、3日の復路はじつに32.1%と往路、復路とも史上最高の数値を記録した。いや近年、大会出場校を決める予選会でさえ、10%を超えているのである。【数字はビデオリサーチ調べ】
日本人はなぜ、それほど箱根駅伝に高い関心を持つのだろうか。早稲田大学スポーツ科学学術院の松岡宏高教授は、こう指摘した。
「どのスポーツ観戦にも共通する『結果がわからないものを見る楽しみ』。襷をつないで走り、ときに何が起こるかわからない『ドラマ性』。今年はどこが強い、どの選手が楽しみかと頭をひねる『予想、予測性』、そして、自分自身や家族の出身校など特定の大学を応援する『カレッジ・アイデンティティ』がより顕著に現われている」
確かに、指摘の通りである。とりわけ母校の優が勝、上位入賞、シード権獲得などを自己の成功のように感じる気持ちである。しかし、それだけで沿道に100万人もの観衆が集まるだろうか。
2019年第95回大会では、東海大学が常勝軍団となっていた青山学院大学の5連覇を阻んで初優勝 【写真提供:フォート・キシモト】
箱根の想像を絶する急勾配の山登りや、ゴールとなる大手町の興奮はその場にいたものでなければわからない。箱根や大手町に、固定のリピーターが多い理由にほかならない。そこに母校愛が加われば、確かに、この駅伝の魅力がみえてくる。
ただ、よくよく考えてみれば、箱根駅伝を主催するのは関東学生陸上競技連盟であり、有名大学は確かに多いが、いってしまえば〝関東ローカル〟に過ぎない。全国大会としては、全日本学生大学駅伝対抗選手権大会がある。こちらは日本学生陸上競技連合が主催。その名の通り、全国8地区の学連の連合体であり、むろん関東学連も一翼を担う。
そうであるならば、「箱根」よりも「全日本」の方がより盛り上がってしかるべきではないのか。支援するメディアも、箱根が「読売新聞・日本テレビ」に対し、全日本は「朝日新聞・テレビ朝日」となんら遜色はない。出場校も関東の大学が中心ではあるが、全地区から代表校が集う。それにもかかわらず、全日本は箱根への通過点のように見られがちだ。
理由のひとつは、日程である。箱根が1月2、3両日にわたって開催されるのに対し、全日本は11月の第1日曜日。その年で日にちが動くのは致し方ないが、どうしても箱根への調整途中というイメージがわく。
また、2日間開催と1日だけという違いも大きい。距離は箱根の10区間217.1km(往路107.5km、復路109.6km)と比べて、全日本は8区間106.8kmと半分である。
コースも箱根が東京・大手町から横浜、湘南、小田原と都会から海岸沿いを掛け抜け、箱根山中の山登りというクライマックスを持つのに比べ、全日本は熱田神宮から伊勢神宮までという由緒をもつものの、コースは起伏に富まない。つまり、『ドラマ性』に大きな違いが生まれるといってもいい。
東海大学が優勝した2019年の全日本は第50回大会だった。箱根は2020年が第96回ながら、創設100周年である。箱根駅伝の歴史は長く、重い。これもまた、人気を押し上げる要因であろう。
箱根駅伝の創設には、オリンピックが深く関わっていた
この年、世界では前年のベルサイユ条約締結によって第一次世界大戦の処理を完了、国際連盟が創設された。日本は創設メンバーとして加盟している。また、ベルギーのアントワープで第7回オリンピック競技大会が開催され、テニスの熊谷一弥と柏尾誠一郎によってシングルス、ダブルスで2個の銀メダル、日本最初のオリンピック・メダルを獲得している。
箱根駅伝の創設は、そのオリンピックと深く関わっていた。
日本が初めてオリンピックに参加した1912年ストックホルム大会で、マラソンに出場した金栗四三は熱中症のため27km手前で意識を失った。予選会で世界記録(距離が短かった)を出し、意気揚々と臨んだ大会だったが、世界との差を痛感させられた。
帰国した金栗は「世界で通用する長距離走者を育成したい」と考え、駅伝大会開催に思いをめぐらせていく。啓示を与えたのが、1917年に読売新聞社が主催した東京奠都50周年を記念する『東京奠都五十年奉祝・東海道駅伝徒歩競走』である。東軍、西軍2チームが京都・三条大橋から東京・上野不忍池まで、約516kmを23区間に分け、3日間かけて走り継いだ。このとき、勝利した東軍のアンカーが東京高等師範学校生の金栗だった。
マラソンの父と言われ、箱根駅伝の創設にも尽力した金栗四三 【写真提供:フォート・キシモト】
1919年、金栗は東京高師教員の野口源三郎、明治大生・沢田英一と語らい、箱根駅伝構想をまとめていく。当初は、夢を大きく「アメリカ大陸横断駅伝」を考えたが、さすがに後援するところはなく、予選会にと考案した東京と箱根間を結ぶ駅伝競走を報知新聞社が後援することになった。それが箱根の始まりである。
第1回大会は1920年2月14、15の両日、早稲田、慶応義塾、明治、東京高師の「四大学対抗駅伝」として実施された。
授業があるため、2月14日午後1時に東京・有楽町の報知新聞社前をスタート、箱根到着は午後8時半をまわり、地元の人たちはかがり火を焚いて選手を誘導した。往路のゴールに最初に飛び込んできたのは明大、しかし、翌日の復路を東京高師が制し、記念すべき最初の優勝校となった。
主催は1919年、金栗、岡田らが創設した全国学生陸上競技連合。21年に関西学生陸上競技連盟が創設されたため、関東学連となり、主催は変更され、今日に至る。
放送メディアと大会日程の固定が、箱根を"お化け番組"に
箱根を変えたのは、放送メディアだった。1953年、NHKラジオが中継を開始。ラジオ局からの要請もあり、大会日程は1月2、3日に固定された。これが、飛躍のきっかけでもある。
テレビは遅れること30年、1983年から始まった。ただし、日本テレビではなく東京12チャンネル(現・テレビ東京)、それも現在のような完全生中継ではなく、ダイジェスト形式で、ゴールだけを生中継した。
それが大きく変化したのは1987年である。日本テレビが放送権を獲得し、時間枠を拡大、多くの区間を生中継した。といっても往路は7時55分〜10時25分、12時〜13時55分。復路は7時55分〜9時25分、12時〜13時55分で、いってしまえば「不完全中継」である。ただ、みる要素が増えたことで、既存の正月〝おせち番組〟に飽きた層を取り込んでいった。
そして、1989年を迎える。当時の坂田信久チーフディレクター(元川崎ヴェルディ社長、元国士舘大学教授)を中心とした日本テレビのスタッフは、箱根山中の電波障害を克服するために双子山などに無線基地を設け、電波を飛ばすことに成功。困難を乗り越えて、完全生中継を実現した。
これ以後、視聴率20%を超える人気番組に育っていく。平均視聴率の過去最高は2019年第95回大会復路の32.1%。いわゆる"お化け番組"に育ったのである。
箱根駅伝のさまざまな波及効果
青山学院大学が、原晋監督のもと駅伝改革プロジェクトを推し進め、2008年に33年ぶりの箱根復活。さらに14年から4連覇という偉業を達成。 【写真提供:フォート・キシモト】
また、松岡教授が指摘した通り、「カレッジ・アイデンティティ」の機運上昇は少子・高齢化時代の大学にとって大きな産物となる。青山学院大学が駅伝改革プロジェクトを推し進め、原晋監督のもと2008年に33年ぶりの箱根復活を遂げ、さらに14年から4連覇という偉業達成で常勝チームとなり、在校生、OBの母校愛、帰属意識を高めたことはよく知られている。ブランド力の向上はこれからの大学経営に不可欠といっていい。
その青山学院大学に刺激をうけて、筑波大学が今回26年ぶりの復活を遂げた。さらに慶應義塾大学、立教大学が駅伝プロジェクトを組み、「箱根対策」に乗り出している。2024年に100回大会を迎える際、これら古豪といわれる大学が戻ってくると箱根はまた、華やぎをますだろう。
一方、2024年大会を機に、全国の大学に門戸を広げたいとする向きもある。これもまた、箱根人気を象徴する現象といっていい。
箱根駅伝の弊害
そして、「箱根出場」だけをめざし、終わったあとに生じる「燃え尽き症候群」は、世界に通用する選手への道を阻む。
徹底した選手教育、意識改革で克服は可能ではある。一方でスポーツは楽しいものである。あくまでも大学生による大学生のための大会、それが根底になければならない。箱根を目指し、関東、東北は当然、関西や中部、九州からも関東の大学へ進学する傾向が年々強まっている。長く指摘されている関東への集中と地元の空洞化を訴える声に耳を傾ける必要はないのか。
有望な高校生を求めたスカウト合戦は大学の財政力に比例するともいわれる。はたして、それでいいのだろうか。
地域間格差、大学間格差、持てる大学とそうではない大学。それが箱根の成績を左右し、関東以外の大学に影響するとしたら、それはさみしい。
エントリーは2人、出場は1人。留学生の問題はスカウトも含め、このままでいいはずはない。いかに線引きするのか、いや線引きはすべてなくすのか。勝つためだけの留学生は必要なのか、大学の姿勢が問われる。教育問題であるだけに根は深い。
選手強化で、「箱根から世界へ」になっていないといわれたこともあった。駅伝重視で高速化対応ができておらず、世界にでてもいい成績が残せない。そうした理由に箱根を上げる声もあった。ただ、世界に通用する長距離選手育成には、練習環境の整備、企業との連動を含めた支援体制の強化が重要となる。それは、ひとえに箱根だけが負うべき責任ではあるまい。
問題はさまざまに横たわる。箱根を変えた男、坂田信久さんは後輩たちにこう話したことがあった。
「駅伝の精神を変えてはならない」
金栗の後輩、東京教育大出身の人らしいスポーツ本来のありようを大事にする思いである。箱根駅伝はこれからも日本人が好むスポーツイベントとして長く続いていく。坂田さんの言葉を重く受け止めたい。
※本記事は2019年12月に「笹川スポーツ財団 Sport Topics 」に掲載されたものです。
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