改めて吉田義男を振り返る
【これはnoteに投稿されたぬかてぃさんによる記事です。】
吉田義男が亡くなられた。91歳。往生だ。この年齢まで生きれればもう悲しみよりも天晴れという言葉の方が強く思い浮かぶ。先人の長すぎる生とその終わりはその人にある心身の強さを改めて思わせてくれるものだ。
今の若い人には吉田義男の印象はないかもしれない。私が学生の頃阪神の第三次政権を任されていたからまだ記憶にあるだろうが、そこから先は印象があるわけではないから活字の「今牛若丸」であったり1985年日本一の監督という印象の方が強いだろう。我々アラフォー世代が現役時代の江川卓を知らないような感覚に突入していた世代の一人といっても差し支えないだろう。
この吉田義男という選手は面白い存在だった。
かの天皇と称された金田正一をして「もっとも苦手な打者」に上げられる小さな打者とはどういうものだったのかを改めて確認してみたい。
今の若い人には吉田義男の印象はないかもしれない。私が学生の頃阪神の第三次政権を任されていたからまだ記憶にあるだろうが、そこから先は印象があるわけではないから活字の「今牛若丸」であったり1985年日本一の監督という印象の方が強いだろう。我々アラフォー世代が現役時代の江川卓を知らないような感覚に突入していた世代の一人といっても差し支えないだろう。
この吉田義男という選手は面白い存在だった。
かの天皇と称された金田正一をして「もっとも苦手な打者」に上げられる小さな打者とはどういうものだったのかを改めて確認してみたい。
1,吉田義男の打撃
吉田義男の印象、と言われたらどうなるだろうか。
守備が上手い、という所が全てに思われているのではなかろうか。では彼が通算安打をどれくらい打っているのか、と言われたらすっとこたえられる人は多くなかろう。
彼の通算安打数は1864。小兵というには安打数が多い。1955年には155で最多安打を記録。翌年1956年も141安打でチーム安打数一位、リーグ三位を獲得するなど決して打撃に関して地味ではなかった。
勿論ホームランは少なく二桁を打った年はない。それが小兵の印象を持たせるのだろうがそれは甲子園という当時にしても大きな球場で戦っていた事にも起因するだろう。実際ダイナマイト打線の中核であった藤村冨美男が年を取り始めてから二桁を打てる選手がいなくなり、田宮健次郎が四番を任されるものの二桁本塁打を打ててやっと、1958年に三宅秀史が21本打つまで20本を打った選手がいなくなっている。
だからこそ甲子園を中心に戦うスモールボールの象徴として吉田義男の存在感があるのだ。
そして次に目立つのが三振数。吉田が30三振を越えたのが二年目の1954年だ。通算三振数350。現役17年でこの数字はとんでもないものだ。単純計算でも彼は現役の中でシーズン20三振を割るのである。一方で四球数は脅威の498。強打者ほど増える四球数だが三振を軽く乗り越えてくる打者はそう多くない。特にホームランの出ない選手に関してはどんどんストライクを攻めてくることを考えたら吉田という選手がどれだけ巧打者で、選球眼も高く、投手に攻め方を考えさせるかを改めて思い知らされる。甘く投げたら打たれるし下手に散らしたら四球を取られる。そして気付けば打たれて塁に出られている。
そんな打者であった。
そして犠打の数も多い。現在では賛否の多いバントであるが、それがチームの中心である吉田がやるのはどういう事になるか。
吉田は犠打王を四度取っている。53、54、59、60年の四度だ。このイメージが強いから小兵の印象を持つのだろう。59、60年辺りは成績も段々と落ち着いてくるためにその印象がそのまま当てはまるのだが印象的なのが二年目の54年だ。
その年51盗塁で盗塁王を獲得している。打順は二番。一番金田正泰の後に付けてその金田にダブルスコア近い盗塁数を決めているのだ(30盗塁)。チームプレーに徹した戦い方ではない。それこそ二番はバント、というイメージに従ってこそいるものの、本人自身が活躍する気満々のプレーをこれ以上なく見せつけている。その打撃のうまさから金田が一番を担っているが、決して彼やチームの添え物として自己犠牲をプレーの信条としていないのがよくわかる。
打撃に関してはなんでもやる。ヒッティングも行えば犠打も行う。状況によれば四球を選び、三振をしてベンチに戻らないことを信条としているような選手像が浮かび上がってくる。
守備が上手い、という所が全てに思われているのではなかろうか。では彼が通算安打をどれくらい打っているのか、と言われたらすっとこたえられる人は多くなかろう。
彼の通算安打数は1864。小兵というには安打数が多い。1955年には155で最多安打を記録。翌年1956年も141安打でチーム安打数一位、リーグ三位を獲得するなど決して打撃に関して地味ではなかった。
勿論ホームランは少なく二桁を打った年はない。それが小兵の印象を持たせるのだろうがそれは甲子園という当時にしても大きな球場で戦っていた事にも起因するだろう。実際ダイナマイト打線の中核であった藤村冨美男が年を取り始めてから二桁を打てる選手がいなくなり、田宮健次郎が四番を任されるものの二桁本塁打を打ててやっと、1958年に三宅秀史が21本打つまで20本を打った選手がいなくなっている。
だからこそ甲子園を中心に戦うスモールボールの象徴として吉田義男の存在感があるのだ。
そして次に目立つのが三振数。吉田が30三振を越えたのが二年目の1954年だ。通算三振数350。現役17年でこの数字はとんでもないものだ。単純計算でも彼は現役の中でシーズン20三振を割るのである。一方で四球数は脅威の498。強打者ほど増える四球数だが三振を軽く乗り越えてくる打者はそう多くない。特にホームランの出ない選手に関してはどんどんストライクを攻めてくることを考えたら吉田という選手がどれだけ巧打者で、選球眼も高く、投手に攻め方を考えさせるかを改めて思い知らされる。甘く投げたら打たれるし下手に散らしたら四球を取られる。そして気付けば打たれて塁に出られている。
そんな打者であった。
そして犠打の数も多い。現在では賛否の多いバントであるが、それがチームの中心である吉田がやるのはどういう事になるか。
吉田は犠打王を四度取っている。53、54、59、60年の四度だ。このイメージが強いから小兵の印象を持つのだろう。59、60年辺りは成績も段々と落ち着いてくるためにその印象がそのまま当てはまるのだが印象的なのが二年目の54年だ。
その年51盗塁で盗塁王を獲得している。打順は二番。一番金田正泰の後に付けてその金田にダブルスコア近い盗塁数を決めているのだ(30盗塁)。チームプレーに徹した戦い方ではない。それこそ二番はバント、というイメージに従ってこそいるものの、本人自身が活躍する気満々のプレーをこれ以上なく見せつけている。その打撃のうまさから金田が一番を担っているが、決して彼やチームの添え物として自己犠牲をプレーの信条としていないのがよくわかる。
打撃に関してはなんでもやる。ヒッティングも行えば犠打も行う。状況によれば四球を選び、三振をしてベンチに戻らないことを信条としているような選手像が浮かび上がってくる。
2,吉田義男の盗塁
そんな吉田は俊足巧打の象徴のように見える。
事実二度の盗塁王を獲得し、通算350盗塁を決めているから決して盗塁が下手な選手ではなかったといえるだろう。
しかし、これが上手いか、と言われるとまた難しい。
初の盗塁王を得たのが1954年。まさに吉田が大暴れしたシーズンである。
この年51盗塁を決めて盗塁王を取っているのだが、同じくして13盗刺と盗塁死王も同時に受賞しているのだ。
この年のパ・リーグ盗塁王は近鉄の鈴木武の71盗塁。22盗刺と多いながらあからさまに盗塁成功率が高い。飯田徳治(48盗塁22盗刺)、川合幸三(42盗塁、13盗刺)のような成績が近かった。
彼より少し前に南海で活躍したバカ肩木塚忠助は479盗塁に対して114盗刺。あからさまに木塚の方が上手い。これが盗塁成功率を大切にしていた広瀬叔功が絡んでくると……。もうやめよう。
どちらかというと盗塁を区画するものの同じくらい盗塁死も多いプレイヤーであった。勿論盗塁成功率68.7%というのは褒められたものだが、やはり上には上がいるという事か。
そういった影響もあっては1957年以降は積極的に盗塁を決めに行っていない。20盗塁ほどは成功するのだが10盗塁ほどは刺される。3度に1回は刺される、足の速い選手以上のものにはならなかった。
事実二度の盗塁王を獲得し、通算350盗塁を決めているから決して盗塁が下手な選手ではなかったといえるだろう。
しかし、これが上手いか、と言われるとまた難しい。
初の盗塁王を得たのが1954年。まさに吉田が大暴れしたシーズンである。
この年51盗塁を決めて盗塁王を取っているのだが、同じくして13盗刺と盗塁死王も同時に受賞しているのだ。
この年のパ・リーグ盗塁王は近鉄の鈴木武の71盗塁。22盗刺と多いながらあからさまに盗塁成功率が高い。飯田徳治(48盗塁22盗刺)、川合幸三(42盗塁、13盗刺)のような成績が近かった。
彼より少し前に南海で活躍したバカ肩木塚忠助は479盗塁に対して114盗刺。あからさまに木塚の方が上手い。これが盗塁成功率を大切にしていた広瀬叔功が絡んでくると……。もうやめよう。
どちらかというと盗塁を区画するものの同じくらい盗塁死も多いプレイヤーであった。勿論盗塁成功率68.7%というのは褒められたものだが、やはり上には上がいるという事か。
そういった影響もあっては1957年以降は積極的に盗塁を決めに行っていない。20盗塁ほどは成功するのだが10盗塁ほどは刺される。3度に1回は刺される、足の速い選手以上のものにはならなかった。
3,吉田義男の守備
「絹の広岡、麻の吉田、木綿の豊田」は小西得郎が三人の守備を現した言葉だ。
この言葉はまさに三人の性質を表している。
まず広岡達朗は1211試合出場中1920刺殺、3437捕殺、601併殺と好成績が並ぶがそれ以上に目立つのが210失策という数字。現在と違いまだグラブが整備されておらず、開く閉じるぐらいが御の字で掴むことが難しい時代のグラブで失策をしないというのは広岡という選手のハンドリング技術の高さを伺わせる
そのようなグラブでシーズン30失策を一度もしたことがないのだから、2000に及びそうな刺殺数も含め、グラブ捌きを活かしたその気品ある守備はまさに「絹」のような性質であっただろう。
この言葉はまさに三人の性質を表している。
まず広岡達朗は1211試合出場中1920刺殺、3437捕殺、601併殺と好成績が並ぶがそれ以上に目立つのが210失策という数字。現在と違いまだグラブが整備されておらず、開く閉じるぐらいが御の字で掴むことが難しい時代のグラブで失策をしないというのは広岡という選手のハンドリング技術の高さを伺わせる
そのようなグラブでシーズン30失策を一度もしたことがないのだから、2000に及びそうな刺殺数も含め、グラブ捌きを活かしたその気品ある守備はまさに「絹」のような性質であっただろう。
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一方守備に劣る豊田泰光は毎年のように30以上の失策をして通算失策は358。守備率は三人の中で唯一9割6分を切る.952。お世辞にも上手ではないものの三人の中で唯一刺殺300を超えており、その能力の高さを生かした日本人離れのプレーをしていたことが分かる。現役後半をサードで過ごしたとはいえ13シーズンの間でショート守備2758刺殺はまさに中西太と共に西鉄を担ったメインの選手であり、その身体能力の高さがうかがえる。
捕殺も4522、併殺758とチームプレーによる記録が多く、どれだけ豊田が守備の場面でもチームを助け、チームが豊田の守備を助けたのかをまじまじと感じさせる、いつもチームの輪にいた存在の守備はまさに「木綿」であった。
さらに一人追加したいのがバカ肩木塚忠助だ。正味11シーズンの守備で刺殺2346、捕殺3850、失策406、併殺646は代名詞のバカ肩とまで言われた強肩と守備連携の高さを思い知らされる。
まさに100万ドルの内野陣と言われた1950年南海ホークスのダイヤモンドを守った選手で、失策の多さこそ気になるものの、前述のグラブ問題や土のグラウンドを考えれば派手な立ち回りにファンを喜ばせたのが想像にガタくない。
そして吉田義男だ。
とびぬける951の併殺はショートとしての存在感がいかんなく発揮されている。刺殺2969、捕殺5242はまさに当時の阪神守備陣がどれだけ堅守で鳴らしていたかを想像するに難くない。晩年藤田平の台頭でセカンドに回されても140という併殺数はいかに阪神の二遊間が鉄壁であったかを示唆するにはいい。
ショートの吉田がセカンドでもこのように活躍した背景には、セカンドの持ち回りも理解していたからこそでもあり、それは身体能力だけでプレーしていない彼の頭の良さが実感できる。
失策が327と多いものの、それは前述の条件を考えればどれほど華やかであったかを想像するに難くないであろう。華やかでハリのある「麻」のような守備をしていた。
まさに小西得郎の言葉通りな守備であり「守備で銭が取れる」と言わしめた吉田の守備はまさにスモールボールになった阪神の華であった。
捕殺も4522、併殺758とチームプレーによる記録が多く、どれだけ豊田が守備の場面でもチームを助け、チームが豊田の守備を助けたのかをまじまじと感じさせる、いつもチームの輪にいた存在の守備はまさに「木綿」であった。
さらに一人追加したいのがバカ肩木塚忠助だ。正味11シーズンの守備で刺殺2346、捕殺3850、失策406、併殺646は代名詞のバカ肩とまで言われた強肩と守備連携の高さを思い知らされる。
まさに100万ドルの内野陣と言われた1950年南海ホークスのダイヤモンドを守った選手で、失策の多さこそ気になるものの、前述のグラブ問題や土のグラウンドを考えれば派手な立ち回りにファンを喜ばせたのが想像にガタくない。
そして吉田義男だ。
とびぬける951の併殺はショートとしての存在感がいかんなく発揮されている。刺殺2969、捕殺5242はまさに当時の阪神守備陣がどれだけ堅守で鳴らしていたかを想像するに難くない。晩年藤田平の台頭でセカンドに回されても140という併殺数はいかに阪神の二遊間が鉄壁であったかを示唆するにはいい。
ショートの吉田がセカンドでもこのように活躍した背景には、セカンドの持ち回りも理解していたからこそでもあり、それは身体能力だけでプレーしていない彼の頭の良さが実感できる。
失策が327と多いものの、それは前述の条件を考えればどれほど華やかであったかを想像するに難くないであろう。華やかでハリのある「麻」のような守備をしていた。
まさに小西得郎の言葉通りな守備であり「守備で銭が取れる」と言わしめた吉田の守備はまさにスモールボールになった阪神の華であった。
4,吉田野球をもう一度
成績とは本人の写し鏡である。
どんな性格であったかを読みとり、どういうプレーを信条としたかが読み取れるものだ。
吉田義男は守備の人、で終わることが多いが改めて成績を見てみるとその思考が残っていることに気付く。
バントだけをすることを良しとするような保守的な性格ではないから二番に座り、二番の性質を理解しながら打撃や走塁を前に前にとやっていった性格や、盗塁の成功率を鑑みた場合に自然とその数を減らしていった野球脳の高さ。
そして華やかな守備を以てファンを沸かせ、チームカラーと変えていったその能力。
それはまさに吉田義男という野球選手が阪神タイガースにどれだけ影響を与えていたか、という事を示唆する道具なのである。
事実1950~60年代の阪神はそれ以前の姿と全く違うものであった。ダイナマイト打線の崩壊と共に守備を中心とした新しいチームに変貌していき、吉田をはじめとして三宅、鎌田といった守備名人が揃い、彼がショートを離れる時には藤田平という新たな守備名人の登場によって去っていった。阪神の歴史を語る際にその時のショートは誰だったかを語る事が出来るのは、吉田から藤田、平田、久慈、鳥谷に至るまで続くまさに現在まで続く阪神の伝統だ。むしろ現在はそこが定着しないところが歯がゆいほどだ。
ただ彼は守備の人ではなく、思考の人であったのは間違いない。
その卓越した野球脳こそが彼の成績を残させたのである。勝つためにはなんでも行い、不必要であるならば自分にとって目立つ要素であっても容赦なく切り捨てる。この割り切る力こそ吉田義男の野球選手の肝なのだ。
改めてこのような様々な戦い方のできる選手がこの世を去るというのは寂しいものである。
どんな性格であったかを読みとり、どういうプレーを信条としたかが読み取れるものだ。
吉田義男は守備の人、で終わることが多いが改めて成績を見てみるとその思考が残っていることに気付く。
バントだけをすることを良しとするような保守的な性格ではないから二番に座り、二番の性質を理解しながら打撃や走塁を前に前にとやっていった性格や、盗塁の成功率を鑑みた場合に自然とその数を減らしていった野球脳の高さ。
そして華やかな守備を以てファンを沸かせ、チームカラーと変えていったその能力。
それはまさに吉田義男という野球選手が阪神タイガースにどれだけ影響を与えていたか、という事を示唆する道具なのである。
事実1950~60年代の阪神はそれ以前の姿と全く違うものであった。ダイナマイト打線の崩壊と共に守備を中心とした新しいチームに変貌していき、吉田をはじめとして三宅、鎌田といった守備名人が揃い、彼がショートを離れる時には藤田平という新たな守備名人の登場によって去っていった。阪神の歴史を語る際にその時のショートは誰だったかを語る事が出来るのは、吉田から藤田、平田、久慈、鳥谷に至るまで続くまさに現在まで続く阪神の伝統だ。むしろ現在はそこが定着しないところが歯がゆいほどだ。
ただ彼は守備の人ではなく、思考の人であったのは間違いない。
その卓越した野球脳こそが彼の成績を残させたのである。勝つためにはなんでも行い、不必要であるならば自分にとって目立つ要素であっても容赦なく切り捨てる。この割り切る力こそ吉田義男の野球選手の肝なのだ。
改めてこのような様々な戦い方のできる選手がこの世を去るというのは寂しいものである。
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