イチロー流 球児へ「打撃編」
「手が主導では安定しない」
バットコントロールのいい練習になるけど、それはあくまでも正しい形でやるから。
手でコントロールしているように見えても、大事なのは下半身の動き。バントと感覚は似ていて、手が主導では安定しない。間違ったやり方ならやらない方がいいし、うまくなりたいなら足を動かす訓練をすること。
トス打撃は「下を使う訓練」と伝えた 【バーチャル高校野球】
比例するとは限らないよ。人って自信満々なときほど足をすくわれてしまうんだよね。少しくらい不安な方が良い結果につながるってことは実は多い。
「一人の一本のためにほかを犠牲にしていいわけがない」
ホームランを狙うときは打ち方を変えるというより、ボールを捉える位置をいつもより下にして角度をつける。確実にヒットを打ちにいく時に比べて捉える位置が少し違う、それだけ。待っている球が来ない限りは難しいから、狙いにいくと確率は下がる。僕はそれが嫌で、ホームランを狙いにいっても『あ、違う』と感じたらヒット狙いに切り替える。ホームランを狙って甘い球が来なければ打ち取られてしまう、そんな選手になりたくないからね。
ヒットとホームランの違いを「ボールの捉える位置」と語った 【バーチャル高校野球】
個人的な目標として持っているのはいいけど、みんなで一つずつ勝っていくことを目指すなら、一人の一本のために他を犠牲にしていいわけがない。
確率が上がっていけば、飛距離も伸ばせるよ。それができないうちに飛距離だけ求めるのは違うし、いろんなボールを捉えられる技術がなかったらホームランなんて打てない。まずは確実に捉える技術を身につけてからだね。
「こちらがチャンスのときは甘い球なんて来ない」
得点圏、とくに走者が三塁にいるような場面では、レベルの高い相手は甘い球なんて投げてくれないから、厳しい球を待っている。
走者がいない時や、相手にプレッシャーがない時は、追い込まれるまでは甘い球を待つけど、2ストライク後は難しい球を待つ。相手のベストピッチ、しかも投げた側が振ってほしいボール球になる球を待って打つ。それが状態のいいときの僕のアプローチ。それができない状態なら、ある程度甘い球を待つよ。
今の高校野球を見ていると、3-0からでも変化球を投げてくるよね。甲子園の試合はそういう野球になっている。こちらがチャンスのときは甘い球なんて来ない。レベルが高くなればなるほどそうなる。
「合う合わないがあるから、まずやってみること」
合う合わないがあるから、まずやってみることだね。ただ動きが大きくなると頭が動いてしまう傾向があるから気を付けて。僕は長い時間ボールを目だけではなく体で捉えるイメージがほしかった。じっと構えた状態から足を上げずに振りにいくと、そのイメージが出ない。タイミングを合わせられれば力を伝えやすいし、ボールに対する反応もいいからね。(構成・山口裕起)
イチローさんと高校野球
20年秋に行った講演では、次のように語っています。
「高校野球は『野球』をやっている。大リーグは『コンテスト』なんです。どこまで飛ばせるかとか。野球とは言えない。高校野球にはそれが詰まっているんです。めちゃくちゃ面白い」
「僕はプロ入り前の野球にすごい興味がある。高校野球とか学生野球の指導者には、そんなにプロ経験者はいません。野球人としてこれから(野球界に)何かお返しできたらと思っています」
球児への指導は、20年12月の智弁和歌山を皮切りに、21年は国学院久我山(東京)、千葉明徳、高松商(香川)、22年は新宿(東京)、富士(静岡)、23年は旭川東(北海道)、宮古(沖縄)と、これまでに8校を訪れました。
21年までの訪問先は学校側の要望や部員からの手紙をきっかけに、決めていました。
新宿と富士については、ともに地域の小学生らを対象に野球の普及にも熱心に取り組んでおり、その活動に関心を持ったイチローさん自ら、訪問を決めました。
また、21年からは女子チームの強化プログラムの一環として、女子高校生の選抜チームと自身が率いる草野球チームとの試合を開いている。
イチローさんは「今後もそれぞれのスタンスで野球に取り組んでいる高校生たちと一緒に野球をやってみたい」と話しています。
イチローさんの歩み
1973年10月22日、愛知県生まれ。愛工大名電高(愛知)から91年秋のドラフト4位でオリックスに入団し、94年から7年連続で首位打者を獲得した。
1月に阪神大震災が起きた95年は「がんばろうKOBE」を合言葉にリーグ優勝、翌96年は日本一に大きく貢献した。
2000年オフにポスティングシステムを利用して大リーグのマリナーズに移籍し、01年に首位打者、盗塁王を獲得してア・リーグMVPに。04年に262安打で大リーグのシーズン最多安打記録を84年ぶりに更新。01年から10年連続シーズン200安打。
12年途中からヤンキース、15年からマーリンズでプレーした。16年には大リーグ史上30人目、日本選手では初となる通算3000安打を達成した。18年にマリナーズに復帰し、19年3月に引退。右投げ左打ち。