田澤ルールとは何か?経緯を振り返る 日本球界が才能の流出を懸念
野茂の活躍でメジャー挑戦が本格化
1995年に「トルネード旋風」を巻き起こした野茂の活躍をきっかけに日本人のメジャー挑戦が本格化した 【写真:ロイター/アフロ】
64年、南海に入団して3年目、20歳の村上雅則は、野球留学先のジャイアンツ傘下A級のシーズン後にコールアップされ、アジア人として初めてメジャーのマウンドに上がった。これに対し、南海側は村上の保有権を主張。ジャイアンツと争う姿勢を示したが、結局両リーグのコミッショナーが仲裁に入り、村上は翌年もジャイアンツでプレーし、66年から南海に復帰することになった。
これをきっかけとして、66年にMLB、NPBの両リーグは、互いに選手保有権を尊重し、他方のリーグ所属の選手と交渉する際には、身分照会を必須とする協定を結んだ。しかし、まだ日米のプレーレベルの差は大きく、その後NPBから海を渡りMLBでプレーする選手は長らく出なかった。日本人選手の「メジャー挑戦」が本格化するのは、95年以降だ。当時、近鉄のエースだった野茂英雄が、ドジャースとマイナー契約を結んだ後、メジャーの舞台に上がり、全米に「トルネード旋風」を巻き起こしてからのことである。
アマ選手獲得については紳士協定のみ
この流れにアマチュア球界も同調した。13年、エディオン愛工大OB BLITZ(クラブチーム)所属の沼田拓巳投手が、ドラフト凍結対象の社会人野球1年目の選手であるにもかかわらずドジャースとマイナー契約を結ぶと、社会人野球を統括する日本野球連盟は、沼田を再登録を認めない除名処分、つまり「永久追放」とした。そして18年には、吉川峻平投手が所属先のパナソニックに在籍のまま、ダイヤモンドバックスとマイナー契約を結んだとして、同様の処分を受けている。吉川は、この年の夏に行われたアジア大会日本代表のエースと期待されており、その秋のドラフト上位候補だった。
これらの措置は、メジャー志向をもつドラフト候補生たちに、アマチュアから直接の渡米を思いとどまらせる要因になったのだろうか? また、逆に田澤の帰国に合わせるかのように「ルール」が撤廃されのはなにゆえのことなのだろうか? 次回は、実際に日本からアメリカへ渡った、それぞれ違う立場の元マイナーリーガーの事例から、そのことを考えていきたい。
<11月12日掲載の第2回に続く>