「PL時代の3年間は人生の10年分に相当する」 元PL学園・野村弘樹に聞く 球児に贈る練習法 甲子園プレイバック編
【撮影:熊谷仁男】
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「感謝」の気持ちを学んだPL学園での3年間
野村さんの2学年上にいた甲子園のスーパースター、清原さん(左)と桑田さん 【写真:岡沢克郎アフロ】
もちろんそれもあります。中学時代のチームはそこそこ強くて、広島市民球場でたまに試合をしていたんです。広島市民球場のレフトにPL教団の広島中央教会の看板があって、そこの教会長さんが野球好きで僕らの試合をよく観ていて、PL学園から声が掛かったんです。中学生の頃から「PL学園のユニフォームかっこいいな」と憧れていましたね。でも、ボーイズリーグの監督や父兄のみなさん全員に反対されましたよ。「PLに行ったってユニフォームなんて着られんやろ」って(笑)。
――PL学園には全国トップクラスの選手が集まります。
顔を知っている選手も何人かいましたね。立浪(和義)、橋本(清)なんかもボーイズリーグで何度か対戦したことがありましたし、シニアリーグやボーイズリーグの連中がいっぱい集まっていましたからね。ただ僕は、「すごいな」という思いも、「やれるな」という思いもなかったんですよ。
野村さんの同級生にも、後にプロで活躍する立浪さん(左)や橋本さんがいた 【写真:岡沢克郎アフロ】
そうですね〜。もう30年経っているから時効かな(笑)? 衝撃的だったのは入学前の3月後半に入寮した時のことですね。その頃は春のセンバツの時で、清原さんが伊野商戦との準決勝で渡辺智男さん(元西武)に3三振して帰ってきたんですよ。僕は清原さん、黒木(泰典)さんと同じ部屋だったんですが、清原さんが血相を変えて帰ってきました。やっぱり3三振が相当悔しかったんでしょうね。当時のPL学園は付き人制で、清原さんの付き人が山野(司)さんという方だったのですが、「山野、室内(練習場)行くぞ!」と言って、清原さん、黒木さん、山野さんで室内に行くんですよ。そうしたら清原さんに「お前も来い!」って言われて、僕はゲージの外で直立不動で清原さんのバッティングを見るわけです。バッティングマシンのバネを締めあげて、150キロくらいにスピードを合わせて、清原さんがガンガン打つんです。それを見たときに「俺、3年間生きて帰れるかな?」と。「あの清原さんでさえこれだけやるんだ」と思いながらゲージの外で立っていた恐怖の時間は、一生忘れないですね(笑)。
――でも野村さんは逃げないで、3年間野球を続けました。
寮の屋上に昇るとね……富田林の駅の方から電車の音が聞こえるんですよ。「明日は帰ろう」と思いながらも、「広島までの電車賃なんてないし……」という想いでしたね。でも、どこかで心にブレーキ掛かるんです。自分が行きたいと言っていたPL学園に来て「帰れない」とう思いもあります。逃げたいと思っているのは全員なんですよ。ここで逃げたら何も残らない。逃げたいと思いながらも逃げなかったのは、どこかに何かがあったんでしょうね。
――高校時代で一番思い出に残っている試合は?
やっぱり最後の夏の大阪県大会の決勝かな。優勝してみんな浮かれていた部分があったんですけど、「甲子園に行くのが目標じゃない。甲子園で優勝するのが目標だ」とズバッと言った立浪はやっぱりキャプテンだなと思いました。そこでまたチームが引き締まって、春夏連覇につながりましたよね。
【撮影:熊谷仁男】
いっぱいあるなぁ。あの3年間は人生の10年分に相当しますね。今でも僕はサインを書くときに「感謝」という言葉を入れさせてもらっています。ピッチャーだったら「相手を抑えた」、バッターだったら「ヒットを打った」ではなくて、「抑えさせていただいた」、「打たせていただいた」とお礼をすることがPL学園の教えなんです。よくPL学園の選手は胸のお守りをつかむ仕草をするじゃないですか? あれはお願いをしているのではなくて、お礼をしているんです。「勝たせていただきました、ありがとうございました」って。僕はプロに入っても感謝の気持ちを持ち続けていたので、結果を出せているときも偉そうになることはあまりなかったかもしれません。ケガをしたときも自分の怠慢とか何かしら理由があったからケガをしたんじゃないかと考えるんです。それならばケガを早く治すためには何をするべきかと考えたときに、人が嫌がることを率先してやってみようと。寮だったらトイレ掃除を自分からやるとか、廊下でゴミを見つけたら一番最初にゴミを拾うとか。そんなPL学園の教えは、今でも僕の中に生きていますね。
甲子園の「芝生の匂い」は忘れられない
思い出しますね。何年経っても。
――甲子園はどんな場所でしたか?
あの「芝生の匂い」は甲子園でしか味わえないんですよね。プロに入って甲子園に初めて行った時も、「ああ、この匂いだ」って思いました。ほかの球場とは違うんですよね。こう思っているのは僕だけかもしれないけれど。やっぱり甲子園っていいですよ。
――甲子園のマウンドは楽しめましたか?
全然(笑)。「甲子園を楽しめる」のは最近の高校生たちですよ。僕は野球をやめるまで一回も野球が楽しいと思ったことがない。ボーイズリーグの時も全然楽しくなかったです。雨で練習が中止になるように、てるてる坊主を反対にぶら下げたりね。野球人ほど雨が好きな人はいませんよ。僕、雨が大好きでしたから(笑)。高校の頃も「雨降らせたいから鳴け」と言われて、「ゲロゲロ」って鳴かされたりしていましたよ。
【撮影:熊谷仁男】
時間がある時はテレビで観たりしています。地元の高校を応援するとかではなくて、純粋にフラットな気持ちで観ていますね。「この選手いいピッチャーだな」「いいバッティングしているな」と思いながら。野球好きのオッサンと一緒ですよね(笑)。
――野村さんが注目している選手はいますか?
僕は甲子園で大船渡の佐々木選手の姿を見たかったですね。仕方のないことですけど、選手は甲子園で成長していくところもあるので、そこは残念ですね。星稜の奥川選手もうわさでは聞いていますけど、この夏でどれくらい成長しているのか、一度生で見てみたいですね。夏の甲子園には出られなかったけど、横浜の及川選手も去年の夏は「ごっつ、いいピッチャだな!」と思って見ていましたから。今の高校生は150キロのストレートを当たり前に投げるから恐ろしい時代ですよね。でも、高校生のバッターもそれを打っちゃうんだからさらに恐ろしいですよ。昔でよかったな〜、俺(笑)。
■プロフィール
野村弘樹(のむら・ひろき)
1969年6月30日生まれ。広島県出身。父親の影響で小学2年生で野球を始める。1987年には、名門・PL学園高校のエースで4番として、甲子園春夏連覇を達成。高校卒業後、ドラフト3位で横浜大洋ホエールズ(現・横浜DeNAベイスターズ)に入団。1993年、最多勝利を獲得。1998年の日本シリーズ第1戦では、先発投手を務めた上に自ら2塁打2本の活躍で、チームの日本一に貢献した。2002年現役引退後、 湘南シーレックスの投手コーチに就任。翌年は、横浜ベイスターズの投手コーチとして、チームを4年ぶりのAクラスに導いた。2006年シーズンから、解説者、評論家として活躍している。
(取材・文/株式会社スリーライト)
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