高崎健太郎が築いたDeNAの礎 「強い気持ちだけは忘れませんでした」

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初めて尽くしの開幕に戸惑いも

2012年の開幕戦、新球団の第1球を投じた高崎。この年キャリアハイの7勝をマーク 【写真:BBM】

 07年ドラフト希望枠で前身の横浜に入団。1年目はイースタン・リーグで最多勝に輝き、1軍でも初白星をマーク。順調なプロ野球生活の滑り出しに見えたが、2年目は先発で結果が残せずにプロの壁も経験した。それでも徐々に先発として地位を確立させ、Bクラスに低迷するチームを献身的に支えた。

──1年目に2勝を挙げましたが2年目は未勝利に終わり、プロの厳しさを味わいました。

 そうですね。入団したころは力任せに投げていました。コントロールもなく、社会人で通用していたボールがまったく通用しなかったです。入団する前は真っすぐとスライダーでほとんど抑えることができていたんですが、プロの壁に跳ね返されました。そこからいろんな球種を覚えていきました。

──先発、リリーフの両方を経験されました。

 自分としては先発でやりたいという気持ちがありました。でも、中継ぎでは貴重な経験をたくさんさせてもらいました。当時は木塚(敦志、現投手コーチ)さんのいい部分を盗んでやろうと、どこに行くのにも一緒について行くようにしてました。木塚さんの野球に対する姿勢、グラウンド以外の部分でも勉強になりました。特にマウンドでの気持ちの面。僕がマウンドまで「よっしゃ、いくぞ!」とダッシュで行くのは、木塚さんから見習ったことでした。

──10年から再び先発に戻ると、11年にはローテを守り球団で唯一規定投球回をクリアするも、5勝15敗。チームは08年から5年連続最下位で苦しい時期でした。

 当時の監督は尾花(高夫)さんでしたが、どんな状況でも僕を使い続けてくれたことで感謝しかありません。その期待に応えようとしていましたが、なかなか結果が出せませんでした。1年間、先発ローテで投げるのは初めての経験でがむしゃらでした。

──先発で好投しても勝ち星がつかない試合もありました。

 だからといって諦めたら終わりですし、そんなときも尾花さんが「健太郎、ごめんな」と監督自ら声をかけていただいたこともありました。頑張らなきゃいけないと思ったし、腐っている暇なんてありませんでした。

──12年から球団はDeNAと生まれ変わり、新球団として迎えた京セラドーム大阪での開幕投手(阪神戦)に抜てきされます。

 ユニホームが変わり、新しい何かが始まる、期待にあふれたマウンドでした。当時の投手コーチのデニー(友利結)さんからオープン戦で「健太郎、ちょっと来い」と言われて、行ってみると「おまえ、明日から2軍な」とデニーさん。「はっ?」と驚くと、中畑(清)監督が「開幕戦はおまえで行くから」と開幕投手を伝えられました。「俺でいいのかな?」と戸惑ったのを記憶しています。

──緊張はしましたか。

 開幕が近づくにつれて緊張感は増していきましたね。試合は7回途中3失点で引き分けでしたが、球団としてもDeNAとなった記念すべき最初の試合の第1球目。僕自身も初めての開幕投手で、何もかもが初めて尽くしの試合でした。自信を持ってマウンドに登れたかといえばそうではなかったです。だからといって不安を抱えたまま登板することは、投手として許されません。でも、徐々に緊張は薄らぎ、平常心で自分の投球を取り戻すことができた。もう少し長いイニングを投げて勝利することでチームを勢いづけられればよかったんですが、それができなかったのは悔しかったです。

──12年は7勝(10敗)でキャリアハイ。満足のいくシーズンでしたか。

 いやいや、開幕投手を任せられたのだから2ケタは勝ちたかったです。何とかチームに勝ちをつけたいという思いで投げていました。チームの順位が沈んだ責任は感じました。

──翌年も開幕投手という話がありましたが、ケガで実現しませんでした。以後、なかなか結果が残せないシーズンが続きます。

 自分なりに一生懸命やっていましたが、結果はついてきませんでした。先発で一度いい投球をしても、次の登板でダメでと長続きしませんでしたね。その繰り返しだった気がします。それでも現役を通して強い気持ちだけは忘れませんでした。幼いころから負けず嫌いで育ってきましたし、「絶対に負けたくない」という気持ちは常に変わることはありませんでした。

──今後、球団でどんな仕事をされるのでしょうか。

 具体的な内容についてはこれから話し合っていきますが、球団職員としてDeNAに残ることになりましたので、今度は支える側としてチームの力になっていきたいです。

──ゆくゆくはコーチや指導者への道を思い描いていますか。

 まだそんな段階ではないですが、そうした野球への携わり方に憧れはあります。やっぱり木塚さん、篠原(貴行、投手コーチ)さんの存在が大きいです。お二人には本当に親身になって相談に乗っていただいた。それに社会人の日産自動車からプレーしてきた横浜の街にも愛着があります。

──野球に限らず今後どんな夢を持っていますか。

 高校を出て右も左も分からない中で横浜に出てきました。ベイスターズという枠を抜きにしても、地域に貢献したいという気持ちが強いです。結局は野球を通して実現することになると思いますが、子どもたちとわいわいとボールを追いかけることが夢ですね。

──では、最後にファンへのメッセージをお願いします。

 DeNAが若い選手を中心にどんどん力をつけてきている現状で、また、毎年ドラフトで新人を獲得する中でチームを去る人がいるのは当然のことです。僕はあまりチームには貢献できませんでしたが、ずっと変わらずに応援していただけるファンの方もたくさんいました。困ったときにスタンドから届けられる声援には本当に勇気づけられた。今は感謝ということ言葉しかありません。11年という期間でしたが「本当にありがとうございました」と言いたいです。


(取材・構成=滝川和臣)

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