日本のバスケがドラマチックに変わる 東野技術委員長が語る強化プラン(前編)
若い選手は「機会に巡りあって火がつく」
八村塁(写真)は高校時代から米国でのキャンプに参加するなどして国際経験を積んできた 【写真:伊藤真吾/アフロスポーツ】
もちろんです。奨学金などでサポートできる仕組みや、どこに送り込んだらいいのか、ということも考えていかなければならないですし、対外的に人材を売り込むためのプロモーションにも力を注いでいかなければなりません。
今までも角野亮伍選手や田渡凌選手、八村塁選手たちは、高校時代にBWB(Basketball Without Borders ※2)のキャンプや国際試合などで世界を経験する機会を得て、米国に渡っています。そういう機会に巡りあうことで、若い選手たちは火がつくんです。良い選手たちにそういうチャンスを与え、火をつけさせるのがわれわれの仕事でもあります。
まだまだ、日本を出ることが若い選手たちの選択肢に入っていないのが現状です。例えばオーストラリアは、徐々に力を付けてこれまでトータルで10人ほどNBA選手を輩出しているのですが、今、男女合わせると約250人が米国のNCAA(全米大学体育協会)でプレーしているそうです。そう考えると、世界を経験できる場を、もっと多くの人たちに増やしていくことが必要でしょう。それは選手だけでなく、コーチやトレーナー、マネジャーも同様で、そういう人たちがまた日本に戻ってきて、最終的に「日本のバスケットを良くしよう」という共通の目標をもって一緒に活動できれば、日本は飛躍的に進化できると思います。
――男子日本代表の強化のための、アンダーカテゴリーの育成に関しては、どういったことをお考えですか?
一つには、身長のプログラムがあります。そもそも、バスケットボールは身長や手の長さも大きく関わってくる競技ですし、世界のバスケットボールはどんどん変わってきていて、今は身長の大きい選手も動けるようになってきています。しかも平均的に身長が大きいので、どんどんスイッチしてディフェンスについてくる。その中でどう攻めるかを考えれば、やはり日本もそれに対応できるようになるしかありません。それが世界を考えたときに本当に必要な準備です。
だからこそ、身長の大きい選手も小柄な選手と同様のスピードとテクニックが必要で、それはアンダーカテゴリーのうちから身に付けていく必要があります。例え180センチある小学生でも、ゴールに背を向けずに正面を向いてプレーするスキルや、外角のシュート力、俊敏性などを早い時期から養成していく必要があると思います。
まだまだ構想段階ですが、日本の最新医学を駆使して、身長が最終的にどの程度まで伸びるのか分析し、最終身長というプログラムを入れる、ということも考えています。もしそうした医療の専門家とも協力してアンダーカテゴリーのうちから強化していくことができれば、仮に20年には間に合わなくても、その先には日本特有の技術力を磨く時間が増え、とんでもない選手が出る可能性が増すのでは、と期待しています。
――数々の取り組みが挙げられましたが、技術委員会では東京五輪に向けた強化に留まらず、その先までつながる、強化の基盤を作ろうとしているのですね。
そうです。東京五輪が当面のミッションですが、それが全てのゴールではなく、これを機に、どれだけ大きな歯車を動かしていけるかが大事だと私は思っています。母国開催の五輪を利用し、徹底的に研究し、チャレンジしていくことこそが大切なのです。
女子日本代表はメダル獲得、男子日本代表は世界を驚かせるバスケットを目標に掲げていますが、その後も、そこで終わりではなく、本物の土台をしっかりと作る必要があります。私は、歯車が動き始めれば日本のバスケットボールはドラマチックに変わると確信しており、そのために身を粉にして、まずは20年まで全力で突っ走り、働こうという覚悟でいます。
今後も多くの人たちの意見を聞き、アドバイスをいただきながら良い形を模索していくつもりです。Bリーグの誕生と自国開催の五輪を控えた今、日本のバスケットボールが良くなるためにはこれが最後のチャンスだという気持ちです。みんなで一緒になって、スピード感をもって取り組んでいく。それができれば、日本のバスケットボールは良い方向に向かうでしょう。“がけっぷち戦法”なのかもしれませんが、われわれには前に進むエネルギーがあると信じています。
※2:NBAがFIBAの協力のもと展開する、グローバルなバスケットボールの発展とバスケットボールを活用した社会貢献活動のプログラム。「垣根を越える」という意味をもつ。17歳以下のトッププレーヤーを対象に合宿を行い、練習や日常生活のスキルアップのためのセミナーなどを行う
<後編へ続く>
東野智弥
【写真:伊藤真吾/アフロスポーツ】
1970年石川県出身。学生時代からバスケットボールに励み、北陸高でインターハイ優勝などを経験。その後、早稲田大を経てアンフィニ東京(現埼玉ブロンコス)でプレーし、全日本実業団選手権大会2位入賞に貢献。現役引退後は、語学留学を経て、ルイス&クラーク大学のアシスタントコーチに就任し、カンファレンスチャンピオン・全米NAIAトーナメントベスト8となるチームの躍進を支えた。その後、三井生命ファルコンズを経て、早稲田大コーチと所沢ブロンコス(現埼玉ブロンコス)HC、車椅子バスケットボール男子日本代表アシスタントコーチなどを兼任。2001年からはトヨタ自動車アルバルク(現アルバルク東京)のアシスタントコーチに就任すると、チームをリーグ初優勝に導く。04年には日本代表アシスタントコーチに就任、06年、母国開催の世界選手権では悔しい経験もした。その後、レラカムイ北海道(現レバンガ北海道)HC、NBAミルウォーキー・バックスのサマーリーグ・アシスタントコーチ、車椅子バスケットボール男子日本代表の戦略コーチなどを歴任。14−15シーズンには浜松・東三河フェニックスをbjリーグ優勝に導く手腕を発揮すると、16年6月より20年間のコーチ業を離れ、日本バスケットボール協会技術委員長に就任した。