沖縄で1人練習に励む花城桜子 フィギュアスケート育成の現場から(10)

松原孝臣

あの日、リュックにスケート靴を押し込んで……

 その後、全国中学校大会にも出場したが、思うような演技ができず、不本意な気持ちで終えた。3月中旬すぎに予定されていたシーズンの締めくくりになる大会で立て直そうと思って練習に励んでいた2011年3月11日のことだった。

 学校は午前中で終わり、いったん家に帰った花城は、練習に備え、昼寝をとった。
 午後2時ごろ、目を覚ますと、「クラブの練習の前に一般の時間から練習しよう」と出かける準備を整えていた。

 そのとき、携帯電話のアラームが鳴った。緊急地震速報だった。

「まさか、と思いました」

 それから3秒くらいだったろうか、体験したことのない揺れに襲われた。

「とっさに厚い布団を頭からかぶりました」

 揺れが落ち着いてくると、外出していた母と携帯電話で連絡をとって互いの安否を確認し、リュックサックにスケート靴を押し込み、外へ出た。
 吹雪だった。母の知人らにも助けられつつ、避難所へ向かった。

「靴の入ったリュックに、いろいろ小物を詰めていきましたね」

 その日をめぐる会話の中で、何度も、「靴」と言った。

「真っ先にリュックに入れていました。やっぱり大事だったからかもしれないですね」
 と振り返る。

「やっぱり、1人でやる練習はきつい」

 その後、各地を転々とした。スケートに毎日励んでいた生活とはかけ離れていたから、スケートとも離れざるを得なかった。

「なんだか、ぽかんと穴が開いたような気持ちでした」

 2011年の秋、母の故郷である沖縄県へ移住することになった。
 沖縄には、リンクがあった。

 上山中学校に転校した花城は、スケートを再開した。
 受験勉強もあったから、滑る日は限られていた。
 再び滑ることができるのはうれしかった。

 一方で、こんな思いもあった。
「やっぱり、1人でやる練習はきついなと思いました」

 仙台のクラブで練習していたときは、切磋琢磨(せっさたくま)できる仲間がいて、目標とする先輩がいて、なによりも、毎日見てもらえるコーチがいた。それと比べれば、スケートをめぐる環境は劇的に変化したと言ってよかった。

 それでも、「高校に入ったら、インターハイを目指そう」と思い描いていた花城は、2013年春、那覇国際高校に進学する。

 高校生活の中で、思わぬできごとや、悔しい思いをした。
 一方で、あらためて確認できたフィギュアスケートへの思いと魅力、そして芽生えた決意があった。

(第11回に続く/文中敬称略)

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著者プロフィール

1967年、東京都生まれ。フリーライター・編集者。大学を卒業後、出版社勤務を経てフリーライターに。その後「Number」の編集に10年携わり、再びフリーに。五輪競技を中心に執筆を続け、夏季は'04年アテネ、'08年北京、'12年ロンドン、冬季は'02年ソルトレイクシティ、'06年トリノ、'10年バンクーバー、'14年ソチと現地で取材にあたる。著書に『高齢者は社会資源だ』(ハリウコミュニケーションズ)『フライングガールズ−高梨沙羅と女子ジャンプの挑戦−』(文藝春秋)など。7月に『メダリストに学ぶ 前人未到の結果を出す力』(クロスメディア・パブリッシング)を刊行。

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