メダルまで0秒03 皆川賢太郎の「自分を超える旅」=プレーバック五輪 第17回

田草川嘉雄

今季、引退を表明した皆川賢太郎。トリノ五輪・男子回転ではメダルまで0.03秒の滑りを見せた 【写真は共同】

 2014年1月19日、世界でもっとも難しいと言われるウェンゲン(スイス)でアルペンスキーのワールドカップ(W杯)男子スラローム第5戦が行われた。日本チームにとっては、ソチ五輪に向けた最後の代表選考対象レースだった。

 皆川賢太郎は、このコースで最大の難所である中間付近の超絶急斜面でスキーのコントロールを失い、コースアウト。この瞬間、ソチ五輪への道は閉ざされた。そして、それは同時に彼の「自分を超える旅」の終わりも意味していた。

 皆川賢太郎が超えようと目指していたのは、8年前の自分。06年のトリノ五輪でメダルまであと100分の3秒に迫った皆川賢太郎自身である。
 あのとき、たしかに彼はメダルに手が届きかけていた。1本目は3位。トップのベンジャミン・ライヒ(オーストリア)とはわずか100分の7秒差だった。メダルどころか優勝だって見えていたはずだ。しかもかなりはっきりと。
 だが、2本目の彼の滑りはわずかに固く、本来のスムーズさを失っていた。スタート直後にブーツのバックルが外れる不運の影響もあったのだろう。2本目のタイムは1位と0秒97差の9位。合計タイムでは3位と0秒03差の4位タイだった。メダルはするりと彼の手の中からこぼれていった。

 ゴールしてタイムを確認した瞬間の、彼の表情を忘れない。それは悔しさともどかしさと悲しさが一緒になった、とても複雑な表情だった。

 厳しく冷え込んだ夜空を背に、3人のメダリストが並んだ表彰式。プレゼンターのひとりは、50年前コルティナ・ダンペッツォ五輪で銀メダルを獲得した猪谷千春氏だった。だが、表彰台の上に皆川はいなかった。歓声を遠くに聞きながら、彼は自分に言い聞かせていた。「絶対に今日の俺を超えてやる」

 それからの8年。彼の戦いは苦難の連続だった。翌シーズンが始まって間もなく、右ひざの前十字靭帯を切った。03年に左ひざの同じ靭帯を切断している彼にとって、それがどれほど大きなダメージだったか、想像に難くない。彼自身それについて多くを口にしないが、以後の皆川にとってひざの不調は外すことのできない足かせとなって、常につきまとった。彼のスラロームがかつての輝きを取り戻すことは、ついになかった。

「イメージしたことがすぐにできない。脳と身体がだんだんかけ離れていくような感覚だった」、「若いときに持っていなかったものを持ってはいるけれど、それ以上に自分から削られていったものも多い」。現役最後のW杯となったウェンゲンのレース後、ゴールに降りてきた彼は取り囲んだ報道陣にこう語った。

 もちろん胸の中にあったであろう悔しさは微塵(みじん)も表さず、むしろサバサバした表情だった。
「高校時代から数えれば20年ですからね。もう充分かな」と最後は笑いながら、皆川は囲み取材を締めくくった。気がつけば、ゴールエリアに残っている選手は、彼の他にはいなかった。

 日本のアルペン史上、猪谷氏に続くメダルにもっとも近づいた男、皆川賢太郎の旅はこうして静かに幕を閉じた。
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著者プロフィール

1956年東京都生まれ。早稲田大学卒業後、スキー専門誌編集部勤務。98年よりフリーランスのライター&カメラマンとしてアルペンレースを取材する。著書に岡部哲也のレース人生を描いた『終わらない冬』(スキージャーナル)がある

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