伊藤壇、衰えぬアジア挑戦への情熱=流浪のフットボーラーが語る未知の世界

元川悦子

「香港は僕を変えてくれた場所」

「僕を変えてくれた場所」と語る香港では、リーグ選抜に選ばれ、各国の代表チームと戦う機会にも恵まれた 【写真:アフロ】

 03年夏に赴いた次なる地・香港は、彼を大きくスケールアップさせる場となった。香港に目を付けたのは、00年に日本代表がカールスバーグカップに出場したのを知っていたから。同大会に日本が再び参戦すれば、香港リーグ選抜の一員として母国と対峙(たいじ)できる可能性がある。そこに胸をときめかせた。海外4カ国目ともなると、中堅クラブが外国人選手の入れ替えを最も頻繁に行っているのも分かった。それに該当する福建へ電話し、練習参加の約束を取り付けた。

「1週間練習して契約段階になり、そこで初めて自分が入ろうとしているクラブが傑志(キッチー)だと知りました(笑)。連絡したマネジャーが福建から傑志へ移っていたんです。正直ビックリでしたけど、傑志は香港屈指のビッグクラブ。逆に好都合でした」

 傑志では04年2月までの1シーズンを戦い、ハットトリックを達成するなど華々しい結果を残す。この活躍が評価され、04年のカールスバーグカップではノルウェー、ホンジュラス、スウェーデン代表と戦う機会に恵まれた。彼はこの直後、バンコクにあるオーソットサバーFCと4試合契約で短期間プレー。再び香港に戻ってACミランやニューカッスルとのプレシーズンマッチに出場。ミラン戦ではプレドラグ・ミヤトビッチやルイス・ボアモルテ、ニューカッスル戦ではマルセル・デサイーやファブリッツィオ・ラバネッリらが傑志のゲストプレーヤーとして参加した。伊藤は香港読みの「イータンタン」と呼ばれ、メディアにも積極的に取り上げられるなど「香港ドリーム」を地で行く活躍ぶりだった。

「香港は僕を変えてくれた場所。本当に居心地が良くて、延長のオファーをもらった時も残るかどうか迷いました。でも最初に宣言した『1年1カ国』のノルマは果たさなければいけない。04年9月の新シーズンはいつでも移籍できる条件で傑志に残りました」

10カ国を達成、その先に見据えたもの

 初志貫徹した伊藤は11月にマレーシアのペナンFAへ移籍。マレーシアリーグ初の日本人としてリーグ最速ゴールを挙げた。後にペナン島が大津波の被害に遭うと、伊藤は香港で募金活動の告知を実施。「ありがとう伊藤」という記事も現地で掲載された。

 翌05年には隣接するブルネイのQAFへ。しかし、ブルネイリーグが1年8カ月の中断に入ってしまう。伊藤もやきもきしながら再開を待ったがメドが立たず、06年秋にモルジブのクラブ・バレンシアへ一時的に行き、再びブルネイに戻ってきた。が、それでもリーグが始まらず、ブルネイのもう1つの強豪・DPMMのオーナーであるクラウン・プリンスから熱烈なオファーを受け、一時的に移籍。そちらはマレーシアリーグに所属していたため、彼は何とか公式戦に参加できた。そしてブルネイリーグが再開された07年にQAFへ復帰。08年春までの1シーズンをようやく過ごせたという。

 この時点で8カ国を達成。目標まで残り2カ国となり、伊藤は香港リーグの屯門(トゥンムン)体育会へ行くことを選んだ。

「ここは香港リーグ所属でしたけど、中国の深センが本拠地。そのことだけで選びました。傑志で僕が活躍したのを知っている人からは『なんでそんな弱いチームへ行くの?』『年俸も安いのに…』と不思議がられたけど、自分のポリシーを貫きたかった。そこには3カ月いて、09年にはマカオの名門世家加義(ウインザーアーチ・カーイー)に移りました。これでやっと10カ国を達成。心から安堵(あんど)しました」と彼は当時の喜びを打ち明ける。

 年齢は34歳になっていたが、体とモチベーションは全く問題ない。世界で最も多くのクラブに所属した選手を調べてみたところ、ドイツのGKが15カ国を渡り歩いたというデータが浮上した。そこで伊藤は「それを抜かして世界一になろう」と決意。新たな意欲を持って新天地を探し始めた。

「欧州へ行くだけが成功じゃない」

日本とアジアとの懸け橋となるべく、講演会やサッカークリニックも積極的に行っている。今後の展開が楽しみだ 【元川悦子】

 そこからの4年間は、ゴアに本拠を置くインドリーグのチャーチル・ブラザーズ、ミャンマーリーグのラカプラ・ユナイテッド、ネパールのマナン・マルシャンディ、カンボジアのビルド・ブライト・ユナイテッド、フィリピンのグリーン・アーチャード・ユナイテッド、モンゴルリーグのエルチムの6チームを駆け足で回り、前人未到の記録を打ち立てた。

「僕は代理人をつけないのがポリシー。ほとんどのクラブはベトナムへ行った時のように現地でストリートサッカーに混じるところから契約にこぎつけました。日本人は理論武装してから物事を運ぼうとしますが、アジアに出たら自ら飛び込むしかない。南アジアなんかは情報も限られていますし、自分の目で見て判断するのが一番。例えば給料もブルネイとインドがかなり高かった。そういうのも行ってみて初めて分かることですからね。僕自身もJリーグにいた頃は、周りが物事を膳立てしてくれるのが当たり前だと考えていたし、ぬるま湯にどっぷり漬かっていた。外に出てみて、日本で当たり前だと思っていたことがものすごく恵まれているんだとよく分かりました。ただ、環境が変わってもすべては自分次第。アジアにいれば体のケアやスパイクの修理などを自分で工夫するのは当然ですし、それをやることで人間として成長できる。僕はアウトローですけど、その分、いい経験をしているのかなと思います」

 未知なる世界を数多く見てきた伊藤は、アジアサッカーの勢いをひしひしと感じている。いつか日本が追い越される日が来ることも十分あり得るとあらためて警鐘を鳴らす。

「日本サッカー界は欧州の上の方ばかり見ていますけど、アジアは避けて取れない。アジアを軽視したら足元をすくわれる時代が来るかもしれません。少し前までアジアは『日本に居場所のない選手が行くところ』というイメージだったかもしれないけど、Jリーグ時代の3倍も給料をもらっている選手もいる。欧州へ行くだけが成功じゃないことを知ってほしいですね」

 こう語る伊藤は、日本とアジアとの懸け橋になるべく講演会やサッカークリニックを積極的に行っている。もちろんアジア挑戦も辞めるつもりはない。中東や中央アジアなど未開の地はまだある。体が動く限り、彼は走り続けていく。次なる展開が楽しみだ。

<了>

取材・写真提供協力/MY HERO

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著者プロフィール

1967年長野県松本市生まれ。千葉大学法経学部卒業後、業界紙、夕刊紙記者を経て、94年からフリーに。Jリーグ、日本代表、育成年代、海外まで幅広くフォロー。特に日本代表は非公開練習でもせっせと通って選手のコメントを取り、アウェー戦も全て現地取材している。ワールドカップは94年アメリカ大会から5回連続で現地へ赴いた。著書に「U−22フィリップトルシエとプラチナエイジの419日」(小学館刊)、「蹴音」(主婦の友社)、「黄金世代―99年ワールドユース準優勝と日本サッカーの10年」(スキージャーナル)、「『いじらない』育て方 親とコーチが語る遠藤保仁」(日本放送出版協会)、「僕らがサッカーボーイズだった頃』(カンゼン刊)、「全国制覇12回より大切な清商サッカー部の教え」(ぱる出版)、「日本初の韓国代表フィジカルコーチ 池田誠剛の生きざま 日本人として韓国代表で戦う理由 」(カンゼン)など。「勝利の街に響け凱歌―松本山雅という奇跡のクラブ 」を15年4月に汐文社から上梓した

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