銀に終わったソウル五輪、愛弟子・涌井へのメッセージ=潮崎哲也が語る五輪の思い

永田遼太郎

野茂、古田ら後のプロ野球界を背負うそうそうたるメンバーとともにソウル五輪を戦った潮崎 【Photo:アフロ】

 1988年のソウル五輪。野球日本代表はロサンゼルス五輪に続く2大会連続の金メダルを狙っていた。当時は、大学生と社会人で構成されたオールアマ選手のチーム構成。しかし、そのメンバーには後に日本球界を担っていく選手たちがズラリと顔をそろえていた。日本人大リーガーのパイオニア的存在の野茂英雄や野村ID野球の申し子・古田敦也、2000本安打を放ち名球界入りを果たした野村謙二郎らそうそうたるメンバー。その豪華メンバーの中でも異彩を放っていたのが、魔性のシンカーを駆使して相手打者を翻ろうした潮崎哲也だった。潮崎はこのとき、成人に満たない19歳で日本代表に選出されていたが、五輪では5試合中4試合に登板するなどチーム内でも重要な役割を任せられる。「自分みたいな、なんの実績もない投手をこんな大舞台で使う監督が悪い」という一種の開き直りとも言うべきマウンドさばきで堂々のピッチングを披露した。
 この大会を機に大ブレイクした潮崎は、2年後のドラフト会議で西武に1位指名を受けて入団。1年目から主戦投手として活躍、同年の日本シリーズでは胴上げ投手にもなった。その後、プロ生活15年間で523試合に登板し82勝55敗55セーブ、防御率3.16と先発にリリーフにフル回転した。現役時代、背中につけていた背番号16は北京五輪で活躍が期待されている涌井秀章へと受け継がれている。現在は西武1軍投手コーチとして指導にあたっている潮崎。そんな潮崎コーチにソウル五輪の思い出、そして教え子・涌井へのメッセージを語ってもらった。

野茂とはいつも一緒に過ごしていた

――今日はソウル五輪について話を聞かせてもらいます
 えらい昔の話ですよね。20年くらい前かな。社会人2年目で20歳になる年だから、そうか19歳ですね。

――初めて日の丸に袖を通したときの感想は
 うれしかったのはもちろんですけど、僕の場合、急に代表入りが決まったんですよ。高卒で社会人の松下電器に入部して、その2年目に急激に良くなったんですよね。オリンピックの2〜3カ月くらい前に急に代表に呼ばれてしまった感じで、それでオリンピック出場ですから感涙に浸る間もなかったです。代表に入ってからは野茂とは同級生だったし、社会人でも同じ大阪のチーム(野茂は新日鉄堺に所属)だったし、いつも一緒にいたのは覚えていますね。

――日本代表のチームワークはどうでしたか
 粒は小さいけど、うまい野球をするチームでしたね。バランスがいい感じです。ピッチャーもバッターもすきがない野球をするので対戦相手からしたらすごく嫌なチームだったと思いますよ。野球がうまかったですね。

――古田さんのリードはいかがでしたか
 僕のシンカーや野茂のフォークを上手に使ってくれるというか、ピッチャーがストレスを感じない配球をしてくれました。

――ソウル五輪の前大会のロス五輪で日本は金メダルを取っていたわけですが、そのプレッシャーはなかったですか
 あくまでも目標は金メダルでしたけど、そういう意味でのプレッシャーはなかったですね。現在はプロだけで行ってますが、そっちの方が負けられないプレッシャーは相当あると思いますよ。当時と現在では世間的に置かれている立場も変わって今は上の方になっていますし、僕らは『上を目指して、上を取るんだ』って目線を上げていく感じだったですけど、今は下のチームに足元をすくわれないって部分が大きいと思います。

――当時、台湾戦がひとつのキーになっていたと思うのですが、延長13回の大熱戦でした。潮崎さんにとっては五輪初登板でした
(当時の資料を見ながら)オレ、この試合投げてるね(笑)。この3点は誰が取られているんだろ? 多分、野茂やね。多分、野茂ですよ。野茂にしとこう(笑)。初登板の緊張感というか気持ちが高揚する部分はもちろんありましたよ。でも上がってしまってどうしようもないってそういう感じじゃなくて、興奮することによって体が軽くなるとか、腕が振れるようになるとかそういうプラス作用の部分をすごく感じました。自分みたいな、何の実績もない投手をこんな大舞台で使う監督が悪いという開き直りが自分でも本当にうまかったと思います。

記憶に残る決勝で打たれたホームラン

――その後、予選リーグ3戦目のオランダ戦では先発もされています
 この試合、5回まで投げているんですけど『俺、これで勝ち投手やな』って考えていた記憶が残っていますね。これ余裕で勝った試合だよね? んん? それでも6対1かあ……。多分、この時点で日本の決勝トーナメント進出は決まっていたと思うんですよね。ライバルだった台湾が全敗しているからね。2戦目の日本に負けた時点で出れないでしょう。だから2試合勝った時点で日本は勝ち上がりが決まっていたと思うし、最後のオランダ戦は下馬評的にも苦しい相手じゃなかったし、「ナメて試合するなよ」程度でプレッシャーはなかったですね。

――準決勝の韓国戦でも投げていますが
 これも投げているなあ。この試合も全然覚えていないなあ。なんせほとんどの試合投げたなっていうのは覚えているんですよ。5試合中、4試合は投げたなって。アマチュア時代だったし、当時の僕はこれが普通だったので疲れは感じなかったですけどね。

――重圧といえば韓国戦は完全なアウエー状態でしたが
 そうですね。でもその当時の日韓戦ってそれほどすごかったかなって感じなんですよ。韓国でやっていたから、確かに韓国の応援団は多かったですけど、特に日韓だからっていう特別な雰囲気は感じなかったですね。

――大会中で一番、印象に残っているシーンは
 決勝戦(対米国)で1点ビハインドの場面から投げたんですけど、そこから2点ビハインドにされたときのホームランですかね。調子良く2イニングくらい抑えたところで、当時アメリカの4番を打っていたティノ・マルチネスに調子乗って投げたら、彼にとってはその日2本目のホームランになるのかな。それを打たれて『ああ、これで追いつかないかな』って正直思ってしまって……。マルチネスがその後、アメリカのメジャーリーグで活躍したから、余計に記憶として残っていて『あのときに打たれたあのバッターがメジャーで頑張ってるんやな』って思い出したりしますね。決勝で負けたことは野茂も相当悔しかったと思います。この当時から『自分の球は絶対に世界で通用する』って考えを持っていましたから。この悔しさがメジャーに結びついた? そうかもしれないですね。

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著者プロフィール

1972年生まれ、茨城県出身。格闘技雑誌編集を経て、2004年からフリーとして活動開始。同時に、学生時代の野球経験を生かし野球ライターとしての活動もスタート。中学生からプロに至るまで幅広い範囲で野球取材を行っている。少年時代からのパ・リーグびいきで、現在は千葉ロッテマリーンズと西武ライオンズを主に取材。『ホームラン』(日本スポーツ出版社)、『スポルティーバ』(集英社)などの雑誌媒体の他、マリーンズオフィシャル携帯サイトやファンクラブ会報誌などにも寄稿している。

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