早大野球部恩師の前で、青木宣親は2度泣いた 早稲田の至宝・21年の現役に幕

チーム・協会

引退セレモニーでファンの声援に応える青木選手 【共同通信】

「早稲田から世界へ」を体現し、日本の野球史に数々の記録を打ち立ててきた早稲田大学野球部出身の青木宣親選手(東京ヤクルトスワローズ)の引退試合が10月2日、学生時代から慣れ親しんだ明治神宮野球場で行われました。青木選手はレフト前ヒットとライト前ヒットを放ってチームの勝利に貢献、日米通算安打数を2730本に伸ばして引退に華を添えました。 試合終了後に行われた引退セレモニー。村上宗隆選手から花束を受け取ったあと、サプライズのアナウンスがありました。

引退セレモニーのサプライズ

試合終了後に行われた引退セレモニー。村上宗隆選手から花束を受け取ったあと、サプライズのアナウンスがありました。

「続きまして、ここ神宮球場で選手・青木宣親の原点を作って下さいました早稲田大学野球部元監督・野村徹様より花束の贈呈です」

青木選手は「おっ」と驚いた笑顔を見せ、その後は涙が止まりませんでした。

野村徹・元早大野球部監督による花束贈呈(13:27ごろ)

野球選手としての原点・東伏見

4連覇を全勝優勝で飾った早慶戦2回戦。5回表二死一塁、鳥谷さんの右翼線二塁打で一塁から生還した青木選手 【共同通信】

早稲田大学野球部の聖地・東伏見のグラウンド。「神宮球場のあの応援、観衆の中で野球がしたい」。高校生の時、テレビで試合を見て以来、憧れた早稲田の野球。猛勉強の末、指定校推薦で入学した人間科学部。宮崎県から上京し、4年間を過ごした野球部合宿所・安部寮。

野球部時代、青木選手は当時の野村徹監督に毎日怒られる中で成長しました。「技術があったとしても、気持ちが弱ければ試合では発揮できない」「全て一発でしとめろ。合わせながらやっていたら試合では通用しない。バックホームも全部一発で決めろ。全部試合に直結するんだ」。守備練習でも、打撃練習でも常に一球勝負。「練習でそれができなかったら、試合では通用しない」。

3年次からレギュラーに定着。「4年間それが出来たかっていわれたら良く分からないですけど、4年間ずっとやっていましたね。グランドに行きたくないと何回も思ったし、嫌になるぐらい悩んだし、それぐらい追い込んだ。何か嫌なことを言われたって今は全然大したことないし、あの時一生懸命やってたから悩んだんですね、一生懸命やっていなかったら悩まない」

野村元監督から授かった一つ一つの教え。プロ入り後、重圧のかかる状況でも学生時代から習慣づいていることは、意識せずとも自然とこなせるようになっていきました。

21年ぶりの涙・・・

2003年11月、4連覇を達成し記念撮影に納まる青木選手(後列右から3人目)と野村元監督(前列左から4人目) 【共同通信】

2003年秋、4年生最後のリーグ戦。開幕前に腕を骨折、全治2ヶ月の重傷を負いました。4連覇がかかった大事なシーズン。「プロに行くことはもう決まっていて、あの怖い監督が、あの時凄い優しい言葉掛けてくれたんですよ。心配してくれて『ああ2カ月か…無理すんなよ』って」。この時、青木選手は監督の前で大泣きしました。「優勝することが監督への恩返しだと思っていたし、申し訳なく思って」。青木選手はリーグ戦途中から復帰、4連覇に貢献しました。

プロ入り後、初めて東伏見を訪れたのは2009年1月、ワールドベースボールクラシック(WBC)合宿の前でした。「久々に東伏見で練習して、当時の雰囲気を思い出してみたくなった」と、野球部後輩であるチームメート・田中浩康さん(当時ヤクルトスワローズ)と2日間の自主トレーニングを行いました。懐かしいグラウンドで汗を流し、自らを見つめ直し、自然と体が安部寮に向かい、気がつくと野球部の創設者・安部磯雄先生の胸像の前にいました。野村元監督も、胸像の前で必ず礼をしていました。

WBCで2連覇を達成し、喜ぶ青木選手(左) 【共同通信】

「WBCのことはもちろん、僕自身のことや、後輩たちのことを『よろしくお願いします』と頭を下げてきました」。日本は2大会連続世界一となり、青木選手はベストナインに選ばれました。そして、その後はメジャーリーガーとなって、1年目から外野のレギュラーとなって規定打席にも到達。2012年から2017年までの6シーズン、ブルワーズ、ロイヤルズ、ジャイアンツ、マリナーズ、アストロズ、ブルージェイズ、メッツの7球団でプレーし774本のヒットを重ねました。日本球界に復帰後は、2021年、2022年とヤクルトスワローズで2度のリーグ優勝を経験しました。

2014年、メジャーリーグ・ワールドシリーズに出場するロイヤルズ・青木選手 【共同通信】

そして引退セレモニー。マウンドで待っている青木選手へ向かって、杖をついた野村元監督がゆっくりと歩いてきました。目の前までくると深々とお辞儀し、肩を抱かれて声をかけられていました。神宮球場から羽ばたいて、神宮球場に戻ってきて、21年ぶりに恩師の前で見せた溢れる涙には、21年間の全てがつまっているように見えました。

早稲田大学野球部・小宮山悟監督「心より祝福いたします」

【共同通信】

長きに渡り、日米の舞台で立派な活躍だったと思います。お疲れ様でした。

野村徹監督から、よく叱られていたと聞くにつけ、反骨心に火がついて、頑張れたのだと思います。

MLBでの活躍も勿論ですが、帰国後、スワローズでの日本一の涙が、アスリートとしての全てを物語っている気がします。

ゆっくり休んで、次なるステージでの活躍、祈ります。

素晴らしいキャリア、引退、心より祝福いたします。

本当におめでとう

m(_ _)m」

早稲田の仲間から祝福されて

阪神タイガース・岡田彰布監督

試合前に阪神・岡田監督(右)から花束を受け取り、記念撮影する青木選手 【共同通信】

9月16日の阪神甲子園球場。早稲田大学野球部の大先輩である岡田彰布監督から花束が贈られ、互いに肩を組んで記念撮影。「このような場を与えてくださった阪神球団さんに感謝しております。早稲田大学、プロ野球の大先輩である岡田監督に花束をいただき恐縮です。記念撮影では、快く肩を組んで撮らせていただいた写真は一生の宝物です。ありがとうございました」とコメントしました。
鳥谷敬さん(元阪神タイガース)

早稲田大学野球部を2002年春・秋、2003年春・秋と東京六大学野球リーグ戦4連覇に導いた同級生・鳥谷敬さんからのビデオメッセージもスクリーンに映し出され、野球部時代の思い出が語られました。9月15日には、阪神甲子園球場で練習前に握手。
横浜DeNA・田中浩康コーチ

試合前、DeNAの田中コーチ(左)から花束を贈られた青木選手 【共同通信】

9月23日には横浜スタジアムで、大学でもプロ(ヤクルト)でも1・2番で共に活躍した横浜DeNA・田中浩康コーチから花束を受けました。

「21年間、夢中になって突っ走ってきました」

青木宣親 引退スピーチ全文

引退セレモニーであいさつし、感極まる青木選手 【共同通信】

「ついにこの瞬間がきてしまいました。こんなに盛大に送り出してくれたファンの皆さん、球団関係者の皆さん。心より感謝を申し上げます。最後まで残ってくれた広島カープファンの皆さん、関係者の皆さん、本当にありがとうございます」

「気づけばプロに入って21年間、夢中になって突っ走ってきました。引退発表後、各球団の方々の心温まるセレモニー、本当にうれしかったです。出会いは何事にも代えがたい大切な宝物です。プロに入って21年。自分の生き方は間違っていなかったと、出会った皆様が日々、教えてくれました。自分に関わって下さった皆さんに感謝しています。本当にありがとうございます」

「いつも信じてくれた両親、ヘトヘトの体を治療し続けてくれた院長、本当にありがとう。そして頑張り屋の妻・佐知。いつもそばにいてくれてありがとう。佐知がいなければここまで野球を続けることはできませんでした。心が折れそうな時、自分の話を聞いてくれたり、励ましてくれてありがとう。そして二人の子どもたち。『ナイスヒット!』って言ってくれるのがうれしくてパパは頑張れました。いつも応援ありがとう」

「(泣かないで!の声に)泣きますよ! 泣くよ! 21年も野球やったんすよ。泣きますよ!」

「アメリカから帰ってきて、素晴らしい仲間に囲まれ、本当に豊かなものになりました。その仲間たちに囲まれ、こうやって送り出してくれること、本当にうれしく思います。本当にありがとう。いつも応援してくれたファン、いつも本当に温かい声援をありがとうございました。そして、この自分が愛したこの球団をよろしくお願いします。また、会いましょう! 本当にありがとうございました」

2003年11月、早稲田大学野球部から4名の選手がドラフトで指名されポーズ。左から比嘉寿光内野手(広島)、由田慎太郎外野手(オリックス)、青木宣親外野手(ヤクルト)、鳥谷敬内野手(阪神) 【共同通信】

青木宣親選手・主な経歴
【大学野球】
宮崎県立日向高校卒業、早稲田大学人間科学部卒業。東京六大学野球・首位打者1回、ベストナイン3回、リーグ戦4連覇達成。
【プロ野球(NPB)】
新人王、首位打者3回、盗塁王1回、最高出塁率2回、最多安打2回、ベストナイン7回、通算1956安打(NPB 15年間)、リーグ優勝2回、日本一1回。
【日本代表】
2008年北京オリンピック出場。WBC3回出場(2006年優勝、2009年優勝、2017年ベスト4)、ベストナイン1回。
【米メジャーリーグ(MLB)】
通算774安打(6年間)、ワールドシリーズ出場。
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著者プロフィール

「エンジの誇りよ、加速しろ。」 1897年の「早稲田大学体育部」発足から2022年で125年。スポーツを好み、運動を奨励した創設者・大隈重信が唱えた「人生125歳説」にちなみ、早稲田大学は次の125年を「早稲田スポーツ新世紀」として位置づけ、BEYOND125プロジェクトをスタートさせました。 ステークホルダーの喜び(バリュー)を最大化するため、学内外の一体感を醸成し、「早稲田スポーツ」の基盤を強化して、大学スポーツの新たなモデルを作っていきます。

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