【浦和レッズ】J1通算600試合出場を達成した西川周作の19年前の記憶と数々の試練…「僕は記憶に残る選手になりたい」
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大分トリニータU-18にフリーキックをガンガン決めているGKがいると知り、インタビュー申請をして会いに行った。
レゾナックドーム大分の近くに建つ現在とは異なり、当時は大分駅の近くにこぢんまりとした事務所があった。入口付近のスペースに用意された椅子に座って待っていると、ヒョロッと背が高く、笑顔の似合う純朴そうな青年が姿を現した。
それが、高校3年生の西川周作だった。
そのインタビューで西川はフリーキックについて「これまで8本蹴って5本決めました」と胸を張り、約1カ月後に迫ったAFCユース選手権2004に向けて「細かなミスをなくして、安定感を出していきたい。みんなから信頼されるGKになりたい」と意気込んだ。
翌05年、同期の梅崎司とともにトップチーム昇格を果たした西川に待望の瞬間が訪れるのは、7月2日のことだった。
リーグ3連覇を狙う横浜F・マリノスをホームに迎える重要な一戦で、高卒ルーキーながら、それも経験が何より問われるポジションにもかかわらず、スタメン起用されたのだ。
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しかもチームは残留争いに巻き込まれていた。そうした状況下における19歳のGKのスタメン起用は、大抜擢と言えた。
この抜擢の背景には、指揮官と西川の信頼関係があった。
大分を率いる元韓国代表ストライカーのファンボ カン監督(現韓国サッカー協会技術本部長)は、前年まで大分U-18の監督を務めており、西川にとって恩師と言える人物だったのだ。
J1リーグデビュー戦とは思えぬほど落ち着いたプレーを見せつつも、56分に失点を喫した西川に80分、大きな見せ場が訪れる。
大分が相手ゴールまで約25メートルの位置で直接フリーキックを獲得すると、西川が自陣ゴール前からフリーキックスポットに駆け寄っていくではないか。
西川がボールをセットすると、スタンドがどよめき、沸いた。
黄色のユニフォームに身を包んだGKが左足で放った渾身のキックは、しかし、枠を大きく越えていき、スタンドからは一転、ため息が漏れた。
その数分後、終了間際にダメ押しゴールを奪われ、スコアは0-2。西川のデビュー戦は黒星に終わった。
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「前日には先発することがわかっていて。寮で暮らしていたんですけど、ソワソワしていたし、緊張で足が震えたんですよね。あんなに緊張したのは初めて。ただ、ウォーミングアップでピッチに出て歓声を浴びたら、緊張がほぐれました。
フリーキックの場面ももちろん覚えています。ファンボさんのほうを見たら『行け!』って。ただ、自分がよく決めていた位置より少し遠かったんですよ。マグノ(アウベス/当時の大分のエースストライカー)が怒っていたのを覚えています(笑)。沸かせるだけで終わってしまいましたね」
これが、19年後に同じ横浜FM相手にJ1リーグ通算600試合出場の最年少記録を打ち立てる西川の第一歩だった。
こうしてルーキーイヤーから大分のゴールマウスを任され、10年に移籍したサンフレッチェ広島でもミハイロ ペトロヴィッチ監督や森保一監督からの信頼を得て、レギュラーGKとしてJ1リーグ連覇に貢献。14年に加入した浦和レッズでも守護神として君臨し続けているから、西川のサッカー人生は順風満帆のように見える。
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とりわけ若いころは、怪我の多い選手だった。
06年のヴァンフォーレ甲府戦ではバレーと激突して左後十字靭帯を損傷し、07年には練習中にチームメートのシュートをひざ下に受けただけで再び靭帯を傷めてしまった。
極めつけが08年の負傷である。浦和戦で田中マルクス闘莉王と激突して左ひざの後十字靭帯と半月板を損傷する大怪我を負い、残りのシーズンを棒に振ると、復帰後も後遺症に悩まされた。
「あのときは苦しかったですね。あったものを取ったわけなので、感覚が全然違うんです。インサイドキックも変なところに飛んでいくし、本当に元に戻るか不安でした」
この年に結婚した亜美さんの献身的なサポートのおかげで翌09シーズンは開幕からピッチに立つことができたが、左ひざには依然として違和感がつきまとっていた。
焦燥する西川に、負傷克服のヒントを与えてくれたのは、当時の浦和の守護神だった。
「ギシさん(山岸範弘)も昔、後十字を傷めたことがあるのを知っていたので、レッズとの試合後、『どうやって治したんですか?』って尋ねたんです。そうしたら『自分のものにするしかないんだよ』と。
そのときはよくわからなかったんですけど、試合を重ねるごとに実感するようになって。要はうまく付き合っていくということ。この角度で蹴れないなら、違う角度のキックでカバーすればいい。この動きをすると痛みが出るなら、違う動きでカバーするんだって」
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この年、西川は左ひざ関節遊離体に悩まされていた。この症状は通称「ねずみ」と呼ばれ、関節内で遊離した軟骨や骨の小片が関節の狭い隙間に挟まったり、引っかかったりすることで、激しい痛みを引き起こす。
「痛いし、腫れるし、左足でインサイドキックも蹴れない状態でしたね」
だが、西川はこの「ねずみ」とうまく付き合った。
「ミシャ(ペトロヴィッチ監督)のサッカーだったから、GKもつながないわけにはいかない。だから、これは右足の練習期間だと思って、右足だけで蹴っていました。そうしたら、右足のキックがうまくなって。試合を重ねながら、ねずみを飼いならして痛みに慣れていったんです」
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それは、山岸のアドバイスを咀嚼できたことや、経験を積んで負傷につながる無謀なプレーが減ったことが大きいが、妻の存在に依るところも少なくない。
「僕は太りやすい体質なので食事の管理でうまくコントロールしてくれたり、若いころから調子に乗っちゃうタイプなので、『ちょっと気を付けたほうがいいよ』って注意を促してくれたり。サッカーについてはまったく知らないんですけど、素人目線のちょっとした言葉が気づきになったり。結婚してなかったら、ここまでやれていないでしょうね」
西川のキャリアにピンチをもたらしたのは、負傷だけではない。浦和に来てからもキャリアの大きな曲がり角になりかねない、ふたつの重要な局面を迎えている。
ひとつは17年に見舞われたスランプだった。
シーズンが開幕したころ、西川の調子は悪いわけではなかった。だが、チームが前年以上に攻撃的な姿勢を打ち出したため、高いディフェンスラインの背後を狙われ、5-2、3-1、4-1と大勝の陰で失点がかさんだ。
「4-1で勝っても、その余計な1失点が気になって、充実感が得られなかったんです。『なんでだろう?』って考え込んで。自分の調子は悪くないと思っていたんですけど、失点を重ねるうちに自分のイメージと体のバランスがズレていったんだと思います」
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2018FIFAワールドカップ ロシアのアジア予選が開幕した15年9月から日本代表の正GKを務めてきたが、17年3月のUAE戦で突然サブに降格させられると、6月には代表メンバーからも外れてしまう。
その直後、6月18日のジュビロ磐田戦でクリアミスを犯して2-4で敗れると、翌日のトレーニング前に土田尚史GKコーチ(当時)から呼び止められた。
西川が当時の情景を思い浮かべながら、振り返る。
「その日は雨が降っていて。ピッチで尚史さんが自分の目を見て『シュウ、今日はトレーニングをしなくていい』って。『今のお前は良くない。でも、絶対に大丈夫だから。絶対に這い上がるぞ』と言ってくれたんです。その言葉が、現状を受け入れるきっかけになりました。そうやってストレートに言ってくれる指導者は、なかなかいないですから。
尚史さんは自分の一番の理解者で、いつも息子のように気にかけてくれる。尚史さんが釣りに行ったあとには、釣った魚を届けてくれるんですよ。『これ食べて頑張れよ』って(笑)」
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リカルド ロドリゲス新監督のもとでも西川は順調に試合出場を重ね、4月18日のセレッソ大阪戦ではJ1リーグ通算500試合出場を達成した。
5月1日のアビスパ福岡戦での0-2の敗戦は、西川のミスによる失点が要因だったが、それまでは開幕から好調をキープし、数々のセーブでチームを救っていた。実際、指揮官からも「周作の調子が悪いと思っているわけではない」と言われたが、「次の試合では彩艶を試してみたい」と告げられた。
「最初は『まさか』と思いました。もちろん、悔しかったです。でも、しばらくして『これをチャンスと捉えなければいけない』『自分にとっていい時間にしたい』と思いました。6試合かな、彩艶にポジションを譲って、柏戦で運良く復帰できて。その試合で結果を残せたからポジションを取り戻しましたけど、あのころは、もどかしかったですね……。
もっとチームの力になれないと、この先も出続けるのは難しいだろうな、今のままではいずれ彩艶が正GKになるだろうなって。自分が大分時代にそうだったように、クラブも育成組織出身の若い選手を使いたいだろうから」
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「すべてをリセットして、取り組んでほしい」という新GKコーチの要望を、西川は素直に受け入れた。
「ジョアンの教え子である林彰洋(現ベガルタ仙台)から話を聞いて、いいコーチだっていうことは知っていたんです。実際、FC東京と対戦したとき、アキのクロスボールに対する守備範囲が広がっていて驚かされた。だから『ジョアンとの出会いは、成長するチャンスだ』と思いました。キャンプが始まってジョアンの理論を聞くと納得することばかりだったので、この人に懸けてみようって」
ジョアンGKコーチのメソッドを吸収した西川がまるで20代の若手のような成長を遂げたのは、詳しく書くまでもないだろう。その成長は「シュウさんはすごい。あの年齢でもどんどん伸びている」と16歳下の彩艶を驚嘆させるほどだった。
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大分時代には元日本代表の岡中勇人、高嵜理貴、江角浩司、下川誠吾、広島時代にもやはり元日本代表の下田崇、浦和でも山岸や加藤順大といった年上の選手たちと切磋琢磨してきた。
彼らにとって西川は自身のポジションを脅かす存在であるにもかかわらず、誰もが優しく接してくれたという。
「ライバル視するのではなく、アドバイスをして、育てるというスタンスでした。それにどのチームでもGKチームの雰囲気がすごく良くて、助かりましたね」
西川はそう感謝する。もちろん、西川が言うように先輩GKの人間性が優れていたのは間違いない。だが、裏表がなく、常に笑顔を絶やさない西川のキャラクターが彼らの心をほぐしたのも確かだろう。
実際、広島では西川が加入するまでGKトレーニングはピリピリした雰囲気で、GK同士が練習中に互いのプレーを称え合うような関係性ではなかったという。そうしたGKチームのムードを、西川が変えたのだ。
自身がそうしてもらったように、西川は後輩たちにできる限りアドバイスするように心がけている。
「GKチームを代表して自分が試合に出ているだけ。自分がいいパフォーマンスを披露できれば、日々の取り組みが間違っていないことの証明になる。みんなの代表だという気持ちは大事にしていきたいと思っています」
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さほど記録を意識してこなかった西川が、この「631」を目指すようになったのは、19年1月8日のことだった。
「その日、ナラさんが引退を表明したんです。ナラさんと(川口)能活さんは子どものころからの憧れで、日本代表に選ばれるようになって、ふたりと一緒に練習できることが夢のようで。ライバルというより、ファン目線で見ていました(笑)。
今でもふたりは憧れの存在なので、なんとか近づきたいし、超えたい。ナラさんの少し前に能活さんも引退されて、ナラさんが42歳、能活さんが43歳でした。その年齢やその記録に向けて、自分はまだまだやりたいなって強く意識するようになったんです」
楢﨑からは「記録も大事だけれど、周作には記憶に残るGKになってほしい」と言われている。
「ナラさんの言うとおりで、『日本のGKと言ったら?』という質問に対して、子どもたちが『西川!』って挙げてくれるような存在になりたいですね(笑)」
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「浦和レッズがどんな大会でも優勝して、そのときのGKはいつも西川だったなっていう風になれば、みなさんの記憶にずっと残ることができるんじゃないかって」
岡崎慎司が引退を表明し、1986年生まれの同級生がひとり、またひとりとスパイクを脱いでいく。だが、西川の頭の中に「引退」の二文字が浮かぶことはない。
「この前の川崎フロンターレ戦のあとにアキ(家長昭博)と話したら、『俺はもうキツイよ』って言うから、『そんなこと言うなよ。もうちょっと頑張ろうよ』って(笑)。(長友)佑都や(興梠)慎三が頑張っているのは心強いですね」
川口や楢﨑が引退した年齢まで4~5年ある。その年齢に達するころには、楢﨑の631試合どころか、歴代1位となる遠藤保仁の672試合も超えて、獲得したタイトル数も大きく膨らんでいるに違いない。
ピッチに飛び出した瞬間の「ニシカワ!」の大声援に背中を押され、その幸せを噛みしめながら、一戦一戦、闘うつもりだ。J1リーグ通算無失点試合数の日本記録を更新しつつ、多くのファンの記憶に残るGKを目指して――。
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(取材・文/飯尾篤史)
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