槙野 智章インタビュー 「俺、なかなかケルンにかぶれてるわ(笑)」【1.FCケルン】

1.FCケルン
チーム・協会

【©1FCKoeln】

 1.FCケルンはヨーロッパで一番日本寄りのクラブではないだろうか。

 何故かはわからないが、1.FCケルンと日本の接点は非常に多く、そのどれもがポジティブな印象ばかりだ。ケルンは1970年代に奥寺康彦を受け入れた欧州クラブであり、逆にJリーグ創設期に活躍したリトバルスキやオッツェらはケルンから日本へ渡っていった。その後も日本からは槙野、テセ、長澤、大迫と続き、ケルンからはノヴァコビッチやポドルスキらが日本を活躍の場に選んだ。それ以外にもケルンと日本の両方で活躍した者はたくさんいる。もしかしたらケルンには日本人を引き付ける何かがあり、日本にもケルンを引き付ける何かがあるのかもしれない。

 今回は第一回目にふさわしく、浦和レッズの漢、槙野智章に話を聞いた。クラブのことや街のこと、当時のチームメイトのことなど、ケルンならではのエピソードをたくさん聞くことができた。

 Zoomが繋がったとたん、当時の選手のことから会話は始まった。あの選手は今何してるとか、この前あの選手からインスタグラムで連絡があったとか。当時、槙野はよくクリスチャン アイヒナー(現カールスルーエ監督)とセバスチャン フライス(引退)とよく食事に行っていたそうだ。その他レンジング(引退)、モハメド(レバノンコーチ)らとは今でもワッツアップで時々連絡を取り合う仲で、ジェロメル(グレミオ)やマトゥシュク(1.FCデューレン)ともSNSで連絡を取っている。槙野がFCに所属していたのは2011年なので、かれこれ10年前だが、それでもその時代の旧友たちとは未だにコンタクトはある。

「当時の選手はほとんど引退してるけど、俺はまだやってる。これって結構すごいよね。」

 引退して指導者になったり、別の道へ進んでいく旧友たちとも槙野らしく付き合っている。また、連絡を取るだけでなく、対戦した旧友たちも多い。ペチュコ(元ポーランド代表)とはワールドカップでポーランドと対戦したときにユニフォームを交換した。ポドルスキ、ノヴァコビッチ、サヌらとは日本でもプレーした。

 槙野自身も、
「まさか日本で一緒にできるとは思わなかったからね。ケルンは奥寺さんら始まって、槙野、テセ、長澤、大迫、そしてその逆もあって。偶然かもしれないけど日本とは縁が強くあると感じてる。」とケルンと日本の関係性に驚いている。

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 次に当時のケルンでのことについて槙野に聞いてみた。

「ケルンで苦労したのは残留争いの中での移籍だったんだけど、自分の力を100パーセントチームに落としこめなかったこと。結局8試合しか試合には出られなかった。それでも、自分にとっては充実した時間だったと思う。全く後悔はないしケルンに、行ったことを失敗だとは思っていない。もしあのまま残っていたらもっと活躍できたかもしれないって思うけど、どれも正解ではないし不正解でもないと思ってるし、ケルンで過ごした1年間は自分にとってすごく財産になった。」

「自分で言うのもなんだけど、オレ1年で相当爪あと残したと思うよ(笑)。何が一番よかったって、その時ケルンの象徴とも言えるポドルスキと仲良くできたから、ファンからもすぐに受け入れられた。ケルンに着いたらすぐにポドルスキと一緒にホームページのトップ画面になったしね。カーニヴァルではドイツ語わからないのにステージでマイクでしゃべらされた。その時にかなり笑いを取れた(笑)。あのときにファンは俺を受け入れてくれたと思うよ。ファンのイベントは誰よりもちゃんとやった(笑)。」

 インタビュー中、笑いは止まなかった。

 当時は日本人サポーターもケルンによく来ていた。スタジアムにもガイスボックハイムにも多く来ていた。日本人がたくさんブンデスリーガにいたこともあるが、当時日本からのファンとの交流も槙野にとっては楽しみと喜びのひとつだった。
生活に関しても、現地の和食店を中心に現地の生活に溶け込んでいた。

「食事はだいたいいつも「桃太郎」。大将の内藤さんには本当にお世話になった。「大都会」も行った。桃太郎の前のフレンチとか、クロードヴィヒプラッツの中華とかもよく行ってた。街の人はめっちゃいいよ。こないだ旅行で行ったときも、ケルンの人は覚えててくれて、マキノ!マキノ!って声をかけてくれた。本当にうれしかった。俺がすごい成績を残したわけでもないのに覚えてくれてるのは本当にうれしい。」

 ケルン市民のFCに対する根強い愛情をFCの選手であった槙野自身が強く感じることができたようだ。

【©1FCKoeln】

 最後に日本のFCファンにメッセージと、今後のことについて聞いてみると、

「今のケルンを知るのはもちろん、在籍してきた日本と関わりのある選手たちの歴史を知ってもらいたいな。それで、その選手たちが今どんな活躍をしているのかを知ってもらいたい。日本に帰る選手もいればまだドイツに残ってる選手もいる中で、ケルンにいた選手を追ってみると、ケルンの新しい魅力が発見できるんじゃないかな。」

「贔屓目に槙野を追って浦和レッズを応援してくれたらうれしいな(笑)。レッズだってドイツの流れが強いクラブじゃん。昔、フィンケさんもウヴェ バインとかヴィリー サヌもケルンにいたし、選手たちを追うと、いろんなケルンとの関わりが見えてきておもしろいよ。レッズでももっとドイツよりなこととかやりたいな。アプフェルショーレを日本で売りたい。あれはアップルタイザーとは違うんだよね。」

「将来的にはドイツと日本のつながりの中でちょっとでもドイツの空気を感じれるようなものをサッカー界に持ち込みたいな。今、手がけてるヘアワックスも「ハルテン」ってドイツ語だし、意味的にも好きな言葉だなって。自分のブランドの名前にしちゃうぐらいね。ルーカスにはものすごい笑われたけど(笑)。香水もやっててコロンもケルン発祥だしね。俺、なかなかケルンにかぶれてるわ。ケルンにいてよかったわ。今のビジネスにも繋がってる(笑)。」

 とても楽しいインタビューだった。槙野のキャラクターによるものももちろんだが、ケルンの槙野は浦和の槙野になってもケルンのファンからは愛され続け、また槙野もケルンを愛し続ける。サッカー選手としてケルンをステップにワールドカップまで登りつめた彼は、他業種でもケルンかぶれぶりを存分に発揮している。最近、ユーチューブも始め、今まで以上に情報発信する機会が増えていく。その中でも彼の一部を形成するケルン魂がところどころに見られることは間違いないだろう。これからも各方面で槙野智章の活躍から目が離せない。

 マキ、一度ケルンにかぶれたらもう戻れないよ(笑)
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著者プロフィール

1.FCケルンは1948年に設立された、ドイツ西部の大都市ケルンに本拠地を置くサッカークラブで、ブンデスリーガに所属しています。1963年に発足したドイツ・ブンデスリーガの初代王者であり、日本人海外移籍の先駆者である奥寺康彦が所属していた頃には2度目のリーグ優勝を成し遂げました。また近年では、槙野智章や鄭大世、大迫勇也も所属していました。

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