東日本大震災から10年。福島のサーファー達からのメッセージ
【SFJ/米地有理子】
3月11日を前に、Surfrider Foundation Japanが公開した「東日本大震災から10年の福島からのメッセージ」の全文を紹介。そこには、福島のサーファー達が力強く前に進んできたこの10年の歩みが記されている。
【SFJ/米地有理子】
10年ひと昔という言葉があるが、この10年は昔ではなく、今も歩み続ける復興への歩みの一つのカウント地点だ。
被災地の中でも特に第一原発の爆発事故という大惨事が起きた福島県は大津波の被害とともに放射能の被害を被り、復興の歩みはなかなか進まず、故郷に足を踏み入れることができない状況は今も一部地域に残るのが現状だ。やむを得ず福島を離れなくてはいけなくなってしまった人、他県などに避難しながらも福島へ帰る日を待ち続けて来た人、立ち入り禁止が解除されてすぐに再建に立ち上がった人、さまざまな福島の人の不屈のストーリーがある。コロナ禍の中で世界中の人たちがこの危機を乗り越えようとしている今、東日本大震災から10年という地点に立つ、豊間、四倉、岩沢、北泉の各ポイントの地元サーファーの皆さんの生の声を届けたい。
今回はコロナ禍ということで現地には行かず電話でインタビューをさせて頂いた。あらためて震災当時の様子やそこからの道のり、そして今を話して頂く中で、私自身が感じたのは被災地の人の強さだ。人間はどんなにひどい状況に陥っても希望をもち続けそこから這い上がり、前へと進んで行けるということ。これからも波の宝庫でもある福島を応援していきたいと思いながらも、逆に生きる力を教えてもらった次第だ。まさに福島がこの10年を強く歩んで来たという証ではないだろうか。
現実に福島の海に入っている人たちの話をとおして、福島の代表的なポイントの今について少しでも知って頂き、今も続く風評被害をなくすとともに、福島の不屈の復興の姿に学びながら共にコロナ禍を乗り越えていければと思う。福島はこれからも力強い歩みを続け、見事な復興の姿と福島の素晴らしい波に乗るサーファーたちの笑顔を年々多く届けてくれるだろう。
震災後訪れた、瓦礫だらけになった場所に植えられた向日葵の花を思い出す。10年が経とうとしている今、太陽に向かって咲くあの向日葵は、福島の人のようだったなと感じている。
豊間ポイント
鈴木孝史さん(サーフショップ「Slow Dancer」オーナー) 【本人提供】
ボランティアの人たちが瓦礫を撤去した場所に向日葵の花を植えていた 【SFJ/米地有理子】
周りの人たちの家がほとんどなくなっていて、仕事に行ったままの格好だから、サーフボードメーカーやウェットスーツメーカーに服を集めてもらって。宅配便が3月31日に受付を再開して4月1日には届くっていうので、それに合わせて地元に戻って、家がなくなった人たちに配ったよ。みんなに中古の服から新品の服、その他たくさんの支援を頂いたよ。それを忘れられないよね。忘れちゃいけないって思っている。波乗りしていないのにサーフボードやウェットスーツを買ってくれた人もたくさんいたよ。店を再開したらって。
サーファーの良き理解者の家の基礎に書かせてもらったメッセージ 【SFJ/米地有理子】
震災前から地区の海水浴の監視を手伝ったり、町のゴミ拾いの手伝いをして、地区の人との良いコミュニケーションとっていたんだよね。豊間の駐車場でやる町の一周忌の前の週に、ゴミがいっぱいだったんだけど、釘とか小さいガラクタをサーファーたちで片付けていたら、町の区長さんが来て、「一周忌終わったらみんな海に戻って来て。このままだと地区が沈んでしまうから、波乗りしに戻って来てくれって」言って。その後、道路を確保して整備したりするのにサーファーが200人ぐらいボランティアでいろんな場所から来てくれて。1年後から波乗りは再開したね。だけど、放射能を嫌って波乗りに戻らない人もいるね。
新しく整備された豊間ポイントには防災緑地がある 【SFJ/米地有理子】
2018年に新しい駐車場ができて、豊間の町の人たちと町おこし的にサーフィン大会をやったよ。震災前まで塩屋埼カップというのをやっていてね。宅地は7年ぐらいかかって。開発に時間がかかりすぎたね。待ってられた人は戻って来たけど。
今は若い子があまりいないけど、サーファーの子供たちがやるようになってきているね。3年前ぐらいからソフトボードとか子供用のウェットスーツを多くして、無料で貸してるよ。子供たちに帰ってきてほしいという思いがあって。だから若い子たちが借りに来るのを楽しみにしている。豊間地区で町おこし的にサーフィン体験とか海で遊ぶ企画をやったけど人数はあまり集まらなかったね。スタッフの方が多い感じ。でも少しずつでもっていう感じだね。
懐かしい海岸線は変わらない 【SFJ/米地有理子】
震災前からそうだけど、住んでいる人とサーファーのいい関係を作ってきたので、ビジターの人にはそれを壊すようなことをしてほしくないね。ゴミの問題、駐車場の問題、自主性に任せるしかないんだけど。最低限のルールとマナーを守ってほしいね。
10年が経とうとしているけど、個人としては、波乗りしてなかったらめちゃめちゃだっただろうね。波乗りしていたからストレスを解消できて、周りの仲間たちも落ち込んでるんじゃないかって気にしてくれてどこかに波乗り行こうって誘ってくれて。波乗りしててよかったなって。それと、波乗りしていると打たれ強いよね。自然のことだし、仕方ないって思って。こんなに話するの初めてだよ。大変だったということ、今まではみんな話せなかったんじゃないかな。少しでも波乗りする人たちの助けになれればいいなって思う。助けられる側じゃなく、助ける側にならないとって。コロナだってもう少しみんな我慢していかないとね。ワクチンもこれから来るしね。
伊藤義隆さん(サーフショップ「Style surf」オーナー) 【本人提供】
豊間の駐車場は町で復興計画を建てた時に、サーファーのためにもって考えてくれたもの。シャワーとか水を使うのは主にサーファーだと思うけど、税金で水道代を払ってもらっているわけで。実は昨年、駐車場で県外のサーファーがキャンプしてはいけないって張り紙している中で障害者用の駐車スペースを使ってキャンプしたり、テント張ったりしていて。今まで地元のサーファーが地元の人とコミュニケーションを取って、一生懸命認知してもらって守って来たポイントなんですよ。次の世代の地元のサーファーがオリンピック選考会に行くぐらいになるっていうことはみんなの夢で。今できることは環境を維持して次の世代に残していくことが俺らの役目だって。鈴木さん(サーフショップ「Slow Dancer」オーナー、鈴木孝史さん)とゴミ拾いとか率先してやって地元の人の理解をもらって、今あたり前にサーフィンできていることができなくなるのは悲しくなりますよ。だからやれることを今やっていこうって。震災後、この環境が残ったということを良しとするしかないと思っていて。もっともっと盛り上がってほしいけど、そういうルール、マナーを守らないビジターには来てほしくないです。無法地帯になってはいけないと。
震災でいろんな人から受けた恩があるから、恩返しということで福島の海で大会ができたらいいなってみんなとも話していて。福島はコンスタントに波があって、良い大会になると思うんですよ。サーフィンの大会で会場提供して、サーフィンってこんなに素晴らしいんだっていうことを見せたいなって。10年は長いですよ。でもようやく生まれ育った場所に戻ってもまだ不便だったり、人が居なかったりっていう場所もあって、復興は道半ばだと思います。だからこそ復興五輪としてオリンピックをやってほしいですね。コロナが大丈夫かってことだけど、やるとなれば行きたいって思っていますよ!サーフィンがオリンピック競技になったんですから。
四倉ポイント
猪狩優樹さん(サーフショップ「GLORY SURF」オーナー) 【本人提供】
四倉の町も津波で大変な被害を受けた 【SFJ/米地有理子】
砂浜に花が捧げられていた 【SFJ/米地有理子】
その後はお客さんの家とかを転々として、栃木のコテージがある所に避難しました。ちょっとしてからお店の様子が気になったので戻ったら、お店の中にあった時計とかサングラスが盗まれていました。盗難のプロみたいな人たちが仙台の方から南下して来てたとか聞きました。
海に人が戻りだした四倉の夏 【SFJ/米地有理子】
四倉は他のポイントよりも復興のスピードは早かったですね。震災の時は本当に悲惨な光景でしたよ。それから風評被害にも悩まされました。福島はローカルオンリーのポイントもあるのですが、四倉はオープンなポイントにしていこうという動きがあって、ルールとマナーを守ればみんなが入れるポイントにしていこうということで、みんなに来てもらえるようになったポイントなんです。海水浴も再開して、サーファー以外の人も海に来るようになって。それが風評被害を払拭してくれましたね。もちろんモニタリングもしていますし。休みの日はサーファー多いです。
駐車場もシャワーも全部タダ。震災後最初の頃は普通が幸せなんで、普通に戻ってほしいと言ってましたね。今は四倉が気軽に遊べる場所になってほしいです。キッズから大人までスケボーや自転車の練習する広場もありますから。天気がいいから海に行こうかみたいな自由に遊べる場所になってほしいですね。今は若い子も出て来ています。キッズサーファーの育成をしているんですよ。波が大きいので乗れるまでは大変ですけど、乗れるようになればいいボトムターンする子が出て来るんじゃないかって。レールを使ったサーファーを育てたいって思っています。震災があったことで、まだまだやれることがあるかなって。マイナスから始まったので、まだまだプラス要素が増えて来るかなって思っています。
サーファーにさまざまな配慮をしてくれている四倉の駐車場 【SFJ/米地有理子】
岩沢ポイント
関根乃さん 【本人提供】
実は岩沢ポイントは復興が一番遅れているね。立ち入り禁止前までは震災1年後に入りだしてからずっと波乗りしてる。去年のゴールデンウィーク、お盆は他県からもサーファーが来てたね。震災1年後に海入った時はインターネットで非難されたけどね。10年後、みんなガンで死んでるとか。岩沢の瓦礫が撤去されてから年2回ぐらいみんなでクリーン作戦したりしてた。
震災後1年の岩沢ポイント 【SFJ/米地有理子】
およそ1年ぶりにホームポイントに戻ったローカルサーファーたち 【SFJ/米地有理子】
前は広野町に住んでたけど、今はならは町の中古住宅に住んでる。ならは町は帰還率は3割、原発関係者を含めたら5割超えぐらいになったかな。ショッピングセンターができて、食べ物屋も復活して、生活できる環境が整ってきたね。だいぶ暮らしやすくなったよ。自宅はまだ帰還困難区域だから、許可ないと入れない。立入禁止の場所以外は普通に生活できてるんじゃないかな。新しい消防施設、工業団地が建設されている。農作物も米や野菜を栽培するだけだったけど、ならは町ではさつまいもを栽培してイモ焼酎作るみたいな。お米もカントリーエレベ―ターを導入して、玄米までの作業はそこで共同でやったり。今までみたいな農業じゃなくて次の時代の農業をやろうというような感じで動いているよ。新しいものをどんどん取り入れてやっている。
原発関連でロボット技術も先行して誘致、開発している。今は廃炉における技術を蓄積する流れに変わっているね。いわきや郡山では、水素ステーションで水素で走る車の普及を進めようとしている。福島は一度全部ぶっこわれているからね。新しいビルドアップができる気がしてる。10年前はひどい状況だったね。まさにみんなマスクを着けてパスに乗って第一原発に行くという光景を見てたけど、今はなくなったね。3年ぐらい前まで第一原発に仕事で行ってた。最初は構内に入る時はマスク着用、そのうち構内はいらなくて、現場に入る時だけマスク着用に変わった。そのうち、現場でもこういう場所以外は着けなくていいよって変わってきて。
今は仕事辞めてのんびりしてるよ。アルバイトしようかなって思ってるところ。12年前まで東電の社員だったからね。震災後は除染作業、草刈り、土建屋さんの放射線管理とかの仕事してた。一般の人よりも放射線の知識はあるから、それほど放射線の恐さはなかったよ。10年経って、これからは岩沢ポイントにしても、工事でどういう風に地形が変わっていくか見なきゃならないし、それを見ながらスローペースで波乗りやっていくしかないかなと。この辺のローカルが一番感じたのは、サーフポイントとして恵まれていたってことかな。
本格的な海水浴場の再開に向けて現在工事中の岩沢ポイント 【関根乃さん提供】
相変わらず波はあるが、工事中のため現在は立ち入り禁止 【関根乃さん提供】
北泉ポイント
鈴木重紀さん 【本人提供】
その後、原発が爆発して、町が機能しなくなって。ちょうど嫁さんが来週ぐらいに子供産むって時で。病院に行ったけど、先生も避難していて。嫁さんの実家に避難して、それから中通りに知り合いが居たのでそっちに移動して何日間かお世話になって。福島市内でたまたま産婦人科があって、診察してもらって。今産まないと産む所もないし無理だよって言われて、子供は帝王切開で1週間早く産まれました。子供が産まれても避難しなきゃいけないし、自分の家もなくて。嫁さんがお腹切って3日ぐらいで退院して、岩手県の親戚の家にお世話になりました。動き回っていましたね。子供のために用意してた物も流されたり、使えない状態になっていて。仕事もしなくてはいけないので1回地元に戻って、仕事をしていたウェット工場の再開の手伝いをしました。でも放射能の心配もあって、ちょっと離れようと家族で新潟のサーファーの知り合いに連絡をして新潟に移りました。新潟のサーフィン関係の人、チーム員の人に紹介してもらってアルバイトしました。いずれは福島に戻りたいと思い、様子を見ながらいましたね。
復興に向けてビーチクリーンをする有志 【SFJ/米地有理子】
2013年頃の北泉海岸 【SFJ/米地有理子】
2013年に慰霊祭が行われた 【SFJ/米地有理子】
サーフショップはやっていませんが、サーフチームはやっていて、みんなでビーチクリーンをやったり、大会に出たりしています。震災の時に産まれた子供は3月14日で10歳になります。
みんなストーリーがありますね。震災前は福島は水害もなくていいところだねって言ってたけど、自分たちの場所で最悪なことが起きて。10年。復興はだいぶ進んだと思います。終わったというわけじゃないけど。放射能、原発の問題は一生続く話だと思います。それとどう向き合っていくか。それだけですかね。原発とかがまた爆発しないでほしいと思います。
震災後初のビーチフェスが行われ、多くの人が北泉に集まった 【SFJ/米地有理子】
夜空に上がる花火に感動もひとしおだった 【SFJ/米地有理子】
JPSAの大会も行われ、ようやくここまで復興したことを実感 【SFJ/米地有理子】
ホームポイントの北泉は、人それぞれの考え方があって、最初はサーフィン自粛している人もいました。みんなが入りだしたのは結構後だったんじゃないかなと。自分は早めに入りました。生きている間は入れないんじゃないかって思っていましたけど、水質を調べたら意外に大丈夫で、半信半疑だったけど復活しました。
震災後2年間、新潟で生活して、大会も回れなくて、戻って来て復興の仕事をしながらサーフィンを続けて来て、大会に出たい、全日本で優勝したいって思いました。2年前、今年の全日本にかけようと思っていたら、準決勝で負けてファイナルに行けなくて、悔しい思いをして。グラチャンは狙っていなかったけど、ポイントでぎりぎり選ばれたので、もう1回チャンスが来たって思って。その試合がうまくはまって、グラチャンで優勝できました。
また憩いの場所になりつつある北泉ポイントへのエントランス 【SFJ/米地有理子】
駐車場もきれいに整備され、サーファーも戻ってきている 【SFJ/米地有理子】
提供:Surfrider Foundation Japan
文・写真:米地有理子
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