絶望のなかで見えた光/関東学院大・竹内祐太 【前編】

全日本大学準硬式野球連盟
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【全日本大学準硬式野球連盟】

「野球は無理だな。普通の生活すらできないかもしれないな」

竹内祐太(関東学院大=三浦学苑)は、手術台の上でぼんやり考えていた。

 右目から見えているのは、いびつな光景。4分割した視界の一部が真っ黒で、見るものは歪んで見えた。原因は不明。大学2年生秋の試合中に突然発症。突発的に起こった網膜剥離だった。

病院に行くと、医師からは「失明の危機がある。手術の成功率は10%」と言い渡される。

「え、これ何? 野球っていうか、もう普通の生活も無理じゃね? 死んだほうがいいのか?俺」

親が泣く姿を見てしまった。準硬式の選抜チームに選ばれ、オーストラリア遠征に行くはずだったがそれもキャンセル。野球どころではない。当たり前だと思っていた自分の未来をあきらめた。

「10%の可能性があるなら、手術を受けよう。何かが変わるかもしれない」

自分で決断し、手術に踏み切った。そして成功。これが2年前の秋のことだ。
もうすぐ大学を卒業する竹内選手は、壮絶だった当時のことを、実に穏やかな表情で話す。

「大きなケガや病気もなく小学生から野球をやってきて、いきなり訪れた試練だったので、あのときは絶望しました。『どん底を味わう』ってこういうことなのだと思いましたね。手術の成功については、医師から『驚異の回復』と言われました。歩くところからリハビリをして、退院後1カ月で練習試合に出られました。監督に『すいません、思ったよりも早く治りまして…。また野球やらせて下さい』と言ったら驚いていましたね。少しぼやけることがありますが、プレーに支障はありません」

野球って楽しいな、心からそう思ったそうだ。
なぜ奇跡の回復を果たせたのか? 聞くと竹内は「やっぱり野球ですかね」と言い切った。

「子どもの頃から『諦めない気持ち』を野球で教わってきたんです。私は、横須賀出身で地元の中学軟式チームに所属していたのですが、指導がとても厳しいチームで、あの時の監督より怖い人にいまだに出会っていません。そこで鍛えてもらって、高校野球に進み、強い心で甲子園を目指す練習をしていました。最後まであきらめない、やりぬく心、強い精神力は中学高校時代の野球で培われたと思っています」

【全日本大学準硬式野球連盟】

コロナ禍で中止。やり切った野球人生

三浦学苑3年のとき、甲子園につながる地方大会がコロナ禍で中止になった。この時も絶望したが、チームは代替大会であきらめずに戦い、横浜高校に勝利する。神奈川大会ベスト4まで勝ち上がった。高校野球を終えたとき、竹内選手の中には、やり切った気持ちと、甲子園に行きたかった気持ち。そして、公式戦に1試合も出られなかった悔しさがこみ上げた。不完全燃焼。そんな自分に「これでいいのか?」と問うた。

「まだまだ野球がやりたい」

 考えがまとまった時、三浦学苑・樫平剛監督から「大学野球に準硬式野球というのがあるよ。甲子園でプレーできる大会もあるらしい。受験してみないか?」と誘われ、関東学院大への進学を決めた。

 準硬式球の感触に最初は戸惑ったが、中学軟式時代の感覚を思い出し、すんなり適応。苦手な守備も楽しみながら、紆余曲折の大学4年間をやり切った。春からは会社員となるため、プレーヤーとしての野球人生はこれで区切りとなる。
「11月の甲子園大会にも出場でき、親の前で元気にプレーする姿も見せられて恩返しができたかなって思っています。甲子園で見てきた景色を中学チームの後輩たちに伝えて『甲子園はいいぞ、野球っていいぞ』と伝えたいですね」

困難を乗り越えて、野球人生を終えた竹内選手。

見つめる視界は、どこまでも広い。
(後編につづく)

(文・写真╱樫本ゆき)
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著者プロフィール

準硬式野球は大学軟式野球競技として昭和20年代にスタートして以降、大学スポーツとして歴史を重ねてきました。2023年現在は約270校、約9400人が加盟。『学業とスポーツの両立』を体現するため、文系・理系・医歯薬系を問わず学生は活動しており、大学の講義・実験・実習を最優先にしてから本気で野球に取組んでおります。また、野球経験を問わず、未経験者、ソフトボール経験者、軟式経験者、女子選手などを積極的に受け入れ、ダイバーシティ・インクルージョンを実現しております。

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