【北京五輪 スキージャンプ】昭和、平成、そして令和の「日の丸飛行隊」に

笹川スポーツ財団
チーム・協会

【1972年札幌冬季オリンピック スキージャンプ70m級表彰、左から金野、笠谷、青地(写真・フォート:キシモト)】

2022年北京冬季オリンピックが遂に開幕。そして、スキージャンプ・男子ノーマルヒル個人が始まります。今シーズン絶好調で頂点を目指す小林陵侑など日本勢の戦いぶりが注目されます。

日本のスキージャンプと言えば、昭和、平成と数々の好成績を残し「日の丸飛行隊」と呼ばれました。今大会、令和もまたあの大飛行がみられるか―。笠谷幸生、八木弘和、原田雅彦、船木和喜、葛西紀明らと続くスキージャンプ選手の系譜を辿ります。

本文:佐野 慎輔(笹川スポーツ財団 理事/尚美学園大学 教授)

日本冬季オリンピック、初めての金メダルは札幌・宮の森で

日本の冬季オリンピック史上初のメダルは1956年コルチナ・ダンペッツオ大会、アルペンスキー回転で猪谷千春が獲得した銀メダル。

以降、日本の冬季スポーツは長くメダルと縁のない時代が続いた。1966年のIOCローマ総会で「(1940年札幌大会の返上以来)30年間埋もれてきた冬の花を咲かせていただきたい」との思いが通じ、1972年冬季大会の開催地は札幌に決まった。大会直接経費173億500万円に地下鉄のなど都市整備費2200億円を投じ、札幌が今日の大都会に発展する基盤が整備された。トワ・エ・モワが歌う「虹と雪のバラード」を人々が口ずさみ、日本ジャンプ陣にメダル獲得の期待が高まった。

抜けるような青空が広がった1972年2月6日、70m級(当時、現ノーマルヒル=NH)ジャンプが行われる宮の森ジャンプ競技場には朝から約2万5000人の観衆が詰めかけた。

午前11時、1本目の試技が始まり、日本勢はまず金野昭次が82m50の大ジャンプ。2番手青地清二は83m50だ。3番手の藤沢隆も81mで続き、45番目にエース笠谷幸生が登場するまで3人が上位に並んだ。笠谷は美しいフォームで弧を描くと最長不倒の84m、トップに躍り出た。

小休止の後の2本目、スタート地点が少し下げられ、距離は出ない。金野は79m、青地は力み過ぎて77m50。2位と3位が入れ替わった。藤沢は踏切が合わずに飛距離を落としてメダル圏外に。ただライバルの外国人選手も金野、青地を上回れない。そして笠谷だ。横からの風が出てスタートが待たされる。しかし笠谷は落ち着いてスタート。79mを跳んだ。金メダルだけではない。銀も銅も、日本勢による表彰台独占が決まった。

大騒ぎとなる会場、人波にもまれながら4位に終わった最大のライバル、ノルウェーのインゴルフ・モルクが笠谷を担ぎ上げ、肩車して称えたシーンは長く歴史に残る。表彰台の3人は「日の丸飛行隊」と呼ばれた。

それから5日後の11日、90m級(現ラージヒル=LH)ジャンプが行われる大倉山ジャンプ競技場の観衆は4万人を超えた。すべての期待が「日の丸飛行隊」に向けられたが、日本勢は別人のように力を出し切れず、笠谷の7位が最上位。ほかは10位以下に沈んだ。

当時の新聞各紙は観客の落胆ぶりを伝えているが、やはり選手たちにはより「重圧」がかかっていたと思われる。記録映画『札幌オリンピック』のメガホンをとった監督の篠田正浩は笠谷を追い、90m級で肩を落とした背中で「敗北の美学」を描いてみせた。

頭をかかえた原田

札幌でノルウェーやフィンランド、ポーランドと並ぶジャンプ強国になった日本だが、その後のオリンピックはなかなかメダルに届かなかった。1980年レークプラシッド大会70m級で八木弘和が獲得した銀メダルが1976年インスブルック大会から1992年アルベールビルまで5大会唯一の表彰台だった。

1991年IOCバーミンガム総会は1998年冬季大会の開催都市に長野を選んだ。札幌以来の開催決定で日本スポーツ界は沸き返り、大会準備とともに選手強化が進められることになるが、1994年リレハンメル大会、LH団体で金メダルにほとんど手をかけていた。西方仁也、岡部孝信、葛西紀明の3人は絶好調。2本目の3人目までに2位ドイツに55ポイント差。最後のジャンパー原田雅彦がごく普通に105mほど跳べば、あの札幌以来のジャンプ界の悲願が達成されるはずだった。

ところが魔が差すとはこのことだろう。ドイツの4人目イェンス・バイスフロクが135.5mの大ジャンプ。原田にプレッシャーをかけた。日ごろ陽気なムードメーカー役だが、本音は責任感の塊のような原田はこの飛躍で身を堅くしたのかもしれない。踏み切ったフォームに勢いはなく、100mにも届かずに落ちた。97.5m。

着地と同時に頭を抱えたまま、うずくまった。日本の報道陣が魂の抜けたような顔でその姿をみていた。

長野の栄光と悲喜こもごものドラマ

1998年長野大会、悲願の金メダルを獲得した日本スキージャンプ団体、左から船木、原田、岡部、斎藤 【写真:フォート・キシモト】

苦い味の銀メダルから4年。地元長野開催に向けて、「日の丸飛行隊」再興をめざす日本のジャンプチームは直前まで、団体戦最終メンバーを決められないでいた。

原田はリレハンメル後の不調から立ち直って97年世界選手権LH優勝、NH2位、団体2位。97‐98シーズンW杯5勝していた。94‐95シーズン鎖骨骨折した葛西に代わって代表入りした船木和喜はW杯に初出場初優勝し世界のトップ選手の仲間入り。97‐98シーズンではジャンプ週間総合優勝を飾るなど絶好調だ。この2人はすぐ決まったが残り2枠が埋まらない。候補は岡部、葛西とリレハンメルの補欠から安定感を増してきた斎藤浩哉である。

1998年2月11日、個人NHには原田、船木と葛西に斎藤が出場、船木が銀メダルを獲得した。原田は5位で葛西が7位、斎藤は9位に終わった。15日の個人LHでは船木が笠谷以来となる金メダルを獲得。原田は銅メダルで続いて札幌以来の複数表彰が実現した。出場した岡部は6位、斎藤は2本目に進めず47位。この成績を参考にするなら3、4人目は岡部、葛西となるはずだ。

しかし、当時のヘッドコーチ小野学は本番に強い岡部と安定した成績を残してきた斎藤を選び、葛西は団体メンバーから外れた。リレハンメルで金メダルを逃し、長野の団体メンバーから外れた葛西がその後、忘れ物を探すかのように現役にこだわっていく起点となったと言ってもいい。

テストジャンパーのメッセージ

LH団体が行われる2月17日、朝から激しい雪が降っていた。こんな天候の日こそテストジャンパーの出番。中断した競技の再開、中止を決めるのはテストジャンプ次第だからだ。そんなテストジャンパー25人のなかに西方の姿があった。リレハンメル大会団体銀メダリストは長野・野沢温泉村出身。地元開催で金メダルをめざしたはずが、長いスランプに陥り、代表から外れた。

失意の西方に声をかけたのは全日本スキー連盟の関係者。安定した力と技を持つジャンパーが必要だとの理由である。ただ西方本人が心底納得していたわけではなかった。

そんな西方に競技が始まる前、声をかけたのが原田。「手袋でも、何でもいい、何か貸して」という申し出に着ていたシャツを脱いで手渡した。同じ歳、雪印乳業で同じ釜の飯を食べ、リレハンメルの悲哀を一緒に味わった仲間である。不安の思いを西方と"一緒に跳ぶ"ことで紛らわせたかったのか、原田は西方のシャツを着て競技に臨んだ。

1本目、日本は4位だった。雪の中、トップの岡部が2位につけ、2番手斎藤が1位にチームを押し上げた。しかし、原田が雪で助走のスピードが落ち、79.5mの失敗ジャンプ。リレハンメルの悪夢がよみがえった。

2本目が始まっても雪は降り続いている。第1グループの8人目が跳んだあと、競技は中断。そのまま競技打ち切り、1本目の成績でメダルが決まる可能性は否定できない。日本の上位にいる3カ国の競技委員は打ち切りを主張。競技の結果、テストジャンパーのジャンプ結果で判断するとなった。

テストジャンパーたちはきっちりと跳び、きれいに着地した。だれも転倒しない。転倒すれば競技が終わり、日本がメダルをのがすことがわかっていたから、きっちり着地を決めた。そして競技委員たちは、西方をみていた。彼が安定したジャンプをすれば競技を再開する。西方は跳んだ。K点を超える 123mの大ジャンプだった。それは原田たちへの応援メッセージであったと思う。

「原田、立て!」

1998年長野大会スキージャンプ団体、歓喜にわく観客 【写真:フォート・キシモト】

再開された2本目。日本は岡部が137mの大ジャンプ、斎藤が続き、原田は悪夢を振り切った。飛距離は137m。

「原田、立て!」―

言葉が雪の中に響いた。着地。

そして最後の船木もきちんと着地を決めて、新しい「日の丸飛行隊」が誕生したのである。

船木は世界を代表するジャンパーとしてオリンピックオーダー銀章など数々の賞を受賞し、ジャンプ競技の普及に力を注ぐ。原田は2022年2月4日開幕の北京オリンピック日本選手団総監督、日本オリンピック委員会(JOC)理事でもある。

葛西はその後18年北京まで冬季史上最多8大会連続出場を果たし、14年ソチでは個人LH銀メダル、団体LH銅メダルを獲得。「レジェンド」と称される。そして長野の栄光を裏で支えた西方たち25人のテストジャンパーの姿は、映画『ヒノマルソウル〜舞台裏の英雄たち』に昇華された。


※本記事は、2022年2月に笹川スポーツ財団ホームページに掲載されたものです。
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