羽生結弦のつくり方 どうやったら我が子をゆず君みたいに育てられるのか?
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3月23日にさいたまスーパーアリーナで行われたフィギュアスケート世界選手権で、昨年11月の右足首負傷から復活を期した羽生結弦(24)は2位に終わった。見事な演技を披露したものの、ショートプログラム、フリーとも優勝したネイサン・チェン(米国)の得点に及ばず、22.45点の大差をつけられての完敗だった。
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「今回は僕がノーミスだったとしても、たぶん勝てなかったと思う。正直な話、平昌五輪後はちょっとフワフワしていたし、何か目的がきっちり定まっていないのかなという気がしていた。でも今はやっぱりスポーツって楽しいなと思っています。強い相手を見た時にゾワッとするような感覚、それをもっと味わいつつ、そのうえで勝ちたいなと思えた」。足の治療専念のため4月の世界国別対抗戦は欠場し、来シーズンの王者奪回へ目標を定めた。
五輪で連覇しても、飽くなき向上心。謙虚な姿勢、プラスに置き換える言葉、中性的なルックス、少女漫画に出てくるような「王子様」キャラ。羽生結弦のような子が、どうすれば育つのか。熱狂ファンの中には、「我が子もそうなってほしい」と思う母親世代が多い。羽生のルーツをたどってみる。
◆幼少期
仙台市内でスケート競技をしていた4歳上の姉の影響でリンクに立った。練習嫌いだったが、お菓子で釣ったり、「すごいよ」とほめればほめるほど、うれしくて頑張るように。幼少期から自己陶酔する特徴があり、初めて出た大会では練習でやっていない振り付けを取り入れ、自分の世界に浸っていた。喘息(ぜんそく)持ちで吸入器は欠かせなかったが、ホコリを吸い込む可能性の少ない屋内でのスポーツはピッタリだった。
◆小学生
教師である父が野球好きで、よくキャッチボールもしていた。3年生のころ、スケートの練習に行きづまった時に「野球のほうがお金もかからないし、スケートが嫌なら辞めてもいいんだぞ」と父から言われた。スケート競技者がかかる費用は年間300万円以上、世界レベルに近づけば年間1000万円以上ともいわれる。決して裕福とはいえない家庭の事情も考えたうえで、「スケートを続けたい」と決めてからは本腰を入れるように。あがり症で、試合前の緊張でおなかを下すこともあったが、母が「大丈夫、練習どおりにやればいい」と励まし続け、精神面を支えた。
◆中学生
父の教えは「スケートだけの人間にはなるな。勉強も両立しないといけない」。練習が忙しくなり、大会出場のため学校は欠席がちだったが、遠征先で時間を見つけては勉強に励んだ。学校に行ったときは「休んで、みんなに迷惑をかけているから」と掃除係などを率先。リンク上では持ち味の「ナルシスト」的な部分に磨きをかけ、表現力をさらに高めていった。
◆高校生
東北高校1年時、東日本大震災で被災した。仙台アイスリンクで練習中だった羽生は大きな揺れに襲われ、泣いて震えていたという。リンクの氷は割れ、建物も半壊状態。家族で4日間、避難所生活を強いられた。「生きていくだけで精一杯。こんな状況でスケートをやっていていいのか」と悩んだが、母が「こんな時だからこそ滑らなければならない」と練習拠点を探して、関係者に片っ端から頭を下げて回っていた。その姿を見て「僕は自分のためだけに滑ってるんじゃない」という決意が揺るぎないものになった。3年時、さらなるレベルアップを目指して地元仙台を離れ、ブライアン・オーサーコーチのいるカナダに移住し、母と2人で暮らしている。
◆両親の関わり方
教育方針は「子供の自主性を尊重する」。子供にやらせるのではなく、子供が関心を持ったことに、可能な限り協力する。父は一歩下がって「おっ、頑張っているな」と声をかけて、見守るスタンス。野球以外にもアスレチックに連れて行き、バランス感覚を鍛えさえた。母は節約のため、羽生の髪を自分で切り、小学生のころフィギュア界で「仙台にマッシュルームカットの天才がいる」と言われていた。11年まで試合の衣装は母の手作りだった。栄養管理の勉強をし、メンタルコントロールについても学んでサポート。両親が表舞台に出ることはなく「頑張っているのは本人であって、親は関係ない」という考えを持ち、取材などを断っている。
あるインタビューで「わが子を羽生選手のように育てたいというお母さんが多い。どうしたら羽生選手のように育つと思いますか」と質問された羽生はこう答えた。
「僕は僕です。人間は一人として同じ人はいない、十人十色です。僕にも悪いところはたくさんあります。でも悪いところだけじゃなくて、いいところを見つめていただければ、子供は喜んでもっと成長できるんじゃないかと思います」
※健康、ダイエット、運動等の方法、メソッドに関しては、あくまでも取材対象者の個人的な意見、ノウハウで、必ず効果がある事を保証するものではありません。
[文/構成:ココカラネクスト編集部]
五輪で連覇しても、飽くなき向上心。謙虚な姿勢、プラスに置き換える言葉、中性的なルックス、少女漫画に出てくるような「王子様」キャラ。羽生結弦のような子が、どうすれば育つのか。熱狂ファンの中には、「我が子もそうなってほしい」と思う母親世代が多い。羽生のルーツをたどってみる。
◆幼少期
仙台市内でスケート競技をしていた4歳上の姉の影響でリンクに立った。練習嫌いだったが、お菓子で釣ったり、「すごいよ」とほめればほめるほど、うれしくて頑張るように。幼少期から自己陶酔する特徴があり、初めて出た大会では練習でやっていない振り付けを取り入れ、自分の世界に浸っていた。喘息(ぜんそく)持ちで吸入器は欠かせなかったが、ホコリを吸い込む可能性の少ない屋内でのスポーツはピッタリだった。
◆小学生
教師である父が野球好きで、よくキャッチボールもしていた。3年生のころ、スケートの練習に行きづまった時に「野球のほうがお金もかからないし、スケートが嫌なら辞めてもいいんだぞ」と父から言われた。スケート競技者がかかる費用は年間300万円以上、世界レベルに近づけば年間1000万円以上ともいわれる。決して裕福とはいえない家庭の事情も考えたうえで、「スケートを続けたい」と決めてからは本腰を入れるように。あがり症で、試合前の緊張でおなかを下すこともあったが、母が「大丈夫、練習どおりにやればいい」と励まし続け、精神面を支えた。
◆中学生
父の教えは「スケートだけの人間にはなるな。勉強も両立しないといけない」。練習が忙しくなり、大会出場のため学校は欠席がちだったが、遠征先で時間を見つけては勉強に励んだ。学校に行ったときは「休んで、みんなに迷惑をかけているから」と掃除係などを率先。リンク上では持ち味の「ナルシスト」的な部分に磨きをかけ、表現力をさらに高めていった。
◆高校生
東北高校1年時、東日本大震災で被災した。仙台アイスリンクで練習中だった羽生は大きな揺れに襲われ、泣いて震えていたという。リンクの氷は割れ、建物も半壊状態。家族で4日間、避難所生活を強いられた。「生きていくだけで精一杯。こんな状況でスケートをやっていていいのか」と悩んだが、母が「こんな時だからこそ滑らなければならない」と練習拠点を探して、関係者に片っ端から頭を下げて回っていた。その姿を見て「僕は自分のためだけに滑ってるんじゃない」という決意が揺るぎないものになった。3年時、さらなるレベルアップを目指して地元仙台を離れ、ブライアン・オーサーコーチのいるカナダに移住し、母と2人で暮らしている。
◆両親の関わり方
教育方針は「子供の自主性を尊重する」。子供にやらせるのではなく、子供が関心を持ったことに、可能な限り協力する。父は一歩下がって「おっ、頑張っているな」と声をかけて、見守るスタンス。野球以外にもアスレチックに連れて行き、バランス感覚を鍛えさえた。母は節約のため、羽生の髪を自分で切り、小学生のころフィギュア界で「仙台にマッシュルームカットの天才がいる」と言われていた。11年まで試合の衣装は母の手作りだった。栄養管理の勉強をし、メンタルコントロールについても学んでサポート。両親が表舞台に出ることはなく「頑張っているのは本人であって、親は関係ない」という考えを持ち、取材などを断っている。
あるインタビューで「わが子を羽生選手のように育てたいというお母さんが多い。どうしたら羽生選手のように育つと思いますか」と質問された羽生はこう答えた。
「僕は僕です。人間は一人として同じ人はいない、十人十色です。僕にも悪いところはたくさんあります。でも悪いところだけじゃなくて、いいところを見つめていただければ、子供は喜んでもっと成長できるんじゃないかと思います」
※健康、ダイエット、運動等の方法、メソッドに関しては、あくまでも取材対象者の個人的な意見、ノウハウで、必ず効果がある事を保証するものではありません。
[文/構成:ココカラネクスト編集部]
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