本間幸司選手 現役引退発表記者会見コメント

水戸ホーリーホック
チーム・協会

【ⒸMITOHOLLYHOCK】

本間幸司選手が9月30日(月)に本間幸司選手の現役引退発表記者会見を行いました。会見内容を下記にて掲載いたします。

代表取締役社長 小島耕
「我々クラブ所属の本間幸司が29年間の現役生活に幕を閉じる発表を先日させていただきました。今日は本人から思いなどを語らせてもらえばと思い、この場を作らせていただきました。急な会見のセッティングにも関わらず、会場のみなさま、多くお集まりいただいたメディアのみなさまに心より感謝申し上げます」

本間幸司選手
「水戸ホーリーホックGK本間幸司は浦和レッズで3年、水戸ホーリーホックで26年の現役生活を終えることを決断しました。こんなに長く(選手を)できるとは思っていなかったですし、若い頃の僕を知っている仲間たちや教えてくれたコーチたちが一番驚いていると思います。今日は時間が許す限り、たくさん質問していただいて、しっかり答えられればと思うので、引き出してください(笑)。よろしくお願いします」

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質疑応答

Q.引退を決意した理由と経緯について教えてください。また、このタイミングで発表した理由は?

「今年で47歳になりました。30代半ばぐらいから引退ということは毎年考えていましたし、『今年が最後のシーズン』という思いでやってきたところがありました。40歳を超えてから、なかなか試合に出ることができなくて、そこでも必死にもがきながらやってきた中、ゲームに出る喜びとはまた違うものを教えてもらいました。GKというポジション柄、なかなかチャンスがない中、(試合に出られないGKは)フィールドの選手と違う仕事がある。僕は地元のチームだということもあり、26年も在籍してきた恩もありましたので、チームのためにできる役割はたくさんあると感じていました。でも、今年になって、どうしても疲労が強くなってきた。ずっと疲労はあったんですけど(苦笑)。プレー的な部分で言うと、僕の代名詞というか、一番得意なシュートストップの部分で、自分の中である程度の基準があるんですけど、そこになかなか満たなくなってきた。試合に出なくても、『俺が一番シュートを止めてるよ』というのが試合に出ていない時の支えになっていたんですけど、そういうものが少し下がってしまって、『そろそろかな』というか、このままでは自分に示しがつかないし、チームにも示しがつかないと思いまして、引退を決めました。

タイミングに関しては、いろいろ考えました。シーズンが終わってから発表したかったというのが本音ですけど、このクラブを応援してくれているサポーターを僕は一番愛していますし、同じホーリーホックを愛している一員として、先に伝えておくべきなのかなと思いまして、このタイミングを選びました」

Q.社長に質問ですが、本間選手からはどのような形で伝えられましたか?

小島社長「伝えられたのはホーム岡山戦の前でした。私自身、驚きと衝撃を受けました。今日はたくさんのクラブスタッフが来ているんですけど、本間幸司の日々の鍛錬する姿は現場側だけでなく、事業側にも大きな影響を与えてくれています。そして、本間選手の引退により、大きなクラブの転換期を迎えているんだなと感じています。それは僕だけでなく、クラブに関わるすべての人間が感じていると思います。ただ、僕自身、まだ強い実感が湧かなくて、さっきまで控室で普通にしゃべっていたんですけど、こうやってスポットライトを浴びて話している姿を見ていると、その瞬間は近づいているんだなという思いが強くなっています」

Q.26年の在籍期間の中でいくつかターニングポイントがあったと思いますが、いくつか挙げてもらえますか?

「一番印象に残っているのは、このクラブに来た時のこと。高校卒業して、浦和レッズで3年間プレーしました。まったく試合に出られず、サッカーを諦めようかなと思っていた時に地元の水戸ホーリーホックに来ました。はじめて練習したのは土のグラウンドでした。しかも、ゴール前に野球のマウンドがあって、『ここでやるの?』と驚きました。それはすごく思い出に残っています。その中でも一緒にプレーするチームメイトがものすごい情熱を持っていて、ある意味レッズの選手に負けないぐらいの情熱を持って、泥んこになってプレーしている姿を見て、自分の甘さというか、サッカーに対する姿勢を考えさせられました。とにかく衝撃を受けたのをすごく覚えています。1年間プレーして現役を引退しようと思って水戸に来たんですけど、この仲間たちと命をかけて水戸ホーリーホックで戦おうとその日に決めました。その後、JFLからJ2に昇格できたことはものすごく大きな思い出です。後から聞いたんですけど、あの時昇格しなければ、水戸ホーリーホックはなくなっていたそうです。個人的にはJリーグの舞台に戻ってこれたという思いが強かったですし、チームメイトの多くがJリーグでプレーしたことがなかったので、みんなと一緒にJリーグで戦える喜びがありました。

J2開幕戦で浦和レッズと駒場スタジアムで対戦できたことはすごく大きな喜びでした。高校卒業して浦和に入りましたけど、実は高校時代最後に練習参加したのが浦和だったんです。その前に他のチームに入ることがほぼ決まっていたんですけど、浦和に練習参加して、ホームゲームを観戦した時、『このサポーターの前でプレーしたい』と強く思ったので、浦和に入ることを決めました。当時から浦和サポーターは世界一だと思っていますし、今でも世界に誇れるサポーターだと思っています。駒場で浦和レッズの一員として試合に出るという夢はかないませんでしたけど、水戸ホーリーホックの一員として駒場スタジアムで浦和と対戦できたことは自分にとっての財産です。サッカーの神様は素晴らしい巡り合わせを与えてくれるんだなと身をもって感じました。

あと、やっぱり東日本大震災後最初のホームゲームですね。僕も被災しましたし、練習が始まる30分ぐらい前に震災が起きました。練習前にストレッチをしていたら、大きな揺れが起きたんです。当時の監督だった柱谷哲二さんは『闘将』と呼ばれる人で、震災が起きても、『もしかしたら試合はあるかもしれない』と言って、余震が起きる中、怖い思いをしながら練習をするという思い出が残っています(苦笑)。その中で帰り道にとんでもないことが起きたんだと理解できましたし、その後、チームは活動を停止して、2~3週間後に集まって練習を再開したんですけど、『サッカーをやっていていいのか』という葛藤が常にありました。東北の被害が大きかったですけど、茨城も『忘れられた被災地』と呼ばれるぐらい大きな被害がありました。仲間たちも大変な思いをしている人がたくさんいました。だからこそ、練習が終わった後に避難所に行ってサッカー教室を開催したり、トレーナーはマッサージをしたり、少しでもみなさんが元気になるために自分たちできることをやろうと思って、みんなで取り組みました。そして、リーグ再開初戦で逆転勝ちをすることができました。本当に実力だけではない、いろいろ大きな後押しがあって勝てたゲームだったということで、すごく印象に残っています。試合が終わって、スタジアムを一周したんですけど、大変な時にたくさんのサポーターが試合を見に来てくれて、一緒に涙を流して『これから頑張ろう』と言い合って、すごく勇気をもらいました。

もう1試合挙げるとすると、僕は試合に関わっていませんですけど、水戸ホーリーホック史上最もJ1に近づいた2019年最終戦の岡山戦。あの試合のスタジアムの雰囲気というか、空気が水戸史上最高だったと思っています。それをスタンドから見ていて、26年前にこんな風景を見れるとは思っていなかったので、鳥肌が立ちましたし、熱い思いがこみ上げてきたことを思い出しますね」

Q.水戸がJリーグに加入されてから、クラブとして経営的に厳しい状況が続いたと思います。本間選手から見て、クラブが最も進化した点はどこですか? また、今後のクラブに期待することは?

「ものすごく進化しました。苦しい時期に一緒に戦った選手たちに残ってもらえるようなチームになりたいという思いが強かったので、25年前に水戸にいた選手たちに今の水戸の環境を見せたいですね。それだけでみんな驚くと思います。当時は練習グラウンドが毎日違いましたし、水道の水で体を洗うこともありました。今はアツマーレという家がある状態になったことはこのクラブにとって大きな変化だと思いますし、このクラブが力をつけてきた大きな要因だと感じています。アツマーレができた時、僕は40歳を超えていたと思います。水戸に来てはじめて背番号1のロッカーが出来た時は感動しました。他のクラブにとって、それは当たり前なのかもしれませんが、自分のロッカーで落ち着いて練習の準備ができるということはすごく幸せなこと。今でもあの喜びをよく覚えています。ここ7~8年でクラブとして成長してきたと思いますし、ここからさらに成長速度を上げていきたいですし、僕もその一員になりたい。10年前、『J1昇格』なんて口に出せませんでした。そんなクラブでした。でも、今は堂々と『J1昇格』と言うことができる。そういうクラブになってきたので、一緒にそれをかなえたいと思っています。選手としてはかなえられなくて残念に思っていますが、J1に昇格する時に僕がこのクラブにいれたら幸せだと思います。OBやサポーターと喜びを分かち合える日が来たら、幸せですね」

Q.本間選手が加入した時から応援してくださっているファン・サポーターの方に伝えたいことは?

「まず、言いたいのは一昨日の鹿児島戦は申し訳ございませんでした! あんな情けない試合をしてしまって、本当に申し訳なく思っています。先週の頭に引退することをみんなに伝えさせていただいたんですけど、僕自身もいろんなことを考えながら、サッカーに全集中できていたかというと、そうでなかったところがあったと思います。そういう空気がチームに伝わってしまったのかなと僕自身反省しています。この会見を機に、もう一回本間幸司がサッカー選手として、引退のことは頭から除いて、全力でもう一回ネジを巻き直して戦いたいと思います。チームとして、二度とあんな試合をすることなく、しっかり戦って、サポーターと『いい1年だった』と言えるように残り5試合戦うことを約束します。あとは応援してくれる人たちの存在が本当に僕の支えになっていました。本当に同じものを愛する仲間。選手やスタッフは入れ替わりますけど、サポーターが入れ替わることはないですから、すごく絆を感じています。サポーターの言葉によって、落ちそうな心を救ってもらった経験は何度もあります。本気で感謝しています。家族以外で、一番感謝しているのは応援してくださっているサポーターと水戸ホーリーホックを愛している人たち。その方々の存在が僕にとっても、このチームにとっても大きな力。ここまでやってこれた大きな要因だと思っています」

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Q.Jリーグの平均引退年齢が25~26歳と言われている中で47歳まで続けられた要因は何だと思いますか?

「まず、丈夫な体に産んでくれた両親に感謝しています。こう見えても、小さい頃は身体が弱くて、冬でも半そで半ズボンの子供がいたじゃないですか? それでした(笑)。体が弱かったので、母親が強くするために厳しく育ててくれた。だから、今もサッカーを続けることができていると思っています。あとは僕はプレーもそうですけど、体の使い方というか、筋肉の連動のさせ方や関節の連動のさせ方をすごく意識してプレーしています。それがすごく良かったと思っています。一か所に負担がかかる体の使い方ではなく、そういう動き方を習得させてもらったことが良かった。それを教えてくれたのは浦和レッズ時代にお世話になったトレーナーの野崎信行さん(現FC岐阜コンディショニングアドバイザー)。僕の体の使い方について指摘してくれまして、当時から調子がいい時はすごく良いパフォーマンスを見せることができたんですけど、『それでは長続きしない』と野崎さんに言われて、今のままでは膝や腿に疲労が溜まると指摘されました。分かりやすく言うと、足の前側の筋肉を中心とした体の使い方から、足の裏側、肩甲骨や股関節とかを使いながらプレーすることを勧められて、それを実践しながら自分なりに考えて取り組んできたことが長く現役を続けられた要因だと思っています。そういう体の使い方を同じGKの選手には伝えていきたいですし、特にアカデミーに所属する若いGKには伝えていかないといけないと思っています」

Q.水戸での26年間でこだわり続けてきた]ことは?

「自分が生まれ育った土地で長くプレーさせてもらって、子どもから大人にしてもらいました。そのクラブに対して、自分のエゴだけでなく、チームのため、クラブのためにということを一番に考えてきたということが僕の信念というか、それだけは曲げてはいけないと思ってきました。自分が試合に出て助けたいと思いもすごくありましたけど、試合に出られなくてもチームがいい方向に向かうなら、受け止めようと思うことができていました。それまで600試合ぐらい出てきて、40歳過ぎてから試合に出られない状況を味わうようになって、難しい時期もありましたけど、そういうところをたくさん学ぶことができました。自分より大切なものがあったということは、自分にとって幸運だったと感じています」

Q.本間選手にとってJ1はどんな舞台でしたか? また、J2はどんな舞台でしたか?

「29年間現役を続けてきて、1試合もトップカテゴリーで試合に出ていないんです。500試合以上出場した人でそんな人は僕だけなんじゃないですかね。J1で1試合も出られずに引退することとなってしまったのですが、J1の舞台に立つことは夢というか、それがかなう日が来たら幸せなんだろうなと思っていました。ここ数年で本気でJ1昇格を意識することができるようなクラブになってきましたし、それ自体がすごく幸せなことでした。それまでは降格しないことや最下位にならないことばかり考えていましたが、上を見てプレーできるようになったことはすごく嬉しかった。クラブがそうなってきたことが良かった。

J2で25年間プレーしてきましたけど、当たり前というか、最低でもそこにいなければいけない場所だと思っていました。でも、最近は本当にレベルが上がってきていますし、だいぶ変わってきました。長くJ2にいたので、水戸ホーリーホックだけでなく、他のチームのサポーターとも分かり合えるものがありますし、たくさんの仲間がいる場所ですね」

Q.すっきりした表情が印象的ですが、引退という決断に後悔や未練はありませんか?

「正直なところ、難しい決断ではありました。一サッカー選手として、長くサッカーを続けさせてもらって、プレーヤーとして試合に出たい気持ちが一番になければいけないし、もちろんその気持ちがありました。試合に出る喜びや試合に出る尊さをより一層感じるようになっていましたし、ずっと試合に出られない中、このままやめていいのかなと思うこともありました。先日、日立市で大宮アルディージャと試合をさせてもらった時、久々に90分間使ってもらって、まだ全然90分戦えるなと自分でも思いましたし、正直、他のチームでもうちょっとやろうかなと考えたことがあります。実際、そういうことを相談したことがありましたし、『一緒にやろう』と言ってくれた人もいました。でも、やっぱり、このチームでユニフォームを脱ぎたかった。それが一番いいのかなと。もう一度、このチームで試合に出て、最高のパフォーマンスをサポーターに見せて終わりたいと。その場面が来るか分かりませんが、もう一度過去最高の自分を最終戦までに作りたいと思いました。このクラブでユニフォームを脱ぎたかったという思いが一番ですね」

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Q.若いGK陣にどんなことを伝えてきたのでしょうか?

「さっきも話した体の使い方とか、若い選手って無理してプレーするところがあるので、無理せずスムーズに動けるようにすることの大切さを伝えてきましたし、1人1人違うので、見て感じたことを伝えるようにしていました。同じライバルですけど、仲間ですし、GKって長くいる時間が多いので、今何を考え、何を感じているのかが分かるので、解決したり、相談に乗って上げたりすることを考えていました。精神的な支えになれればいいなと思っていました。あとはプレーに対しての情熱とか、GKは経験がすごく大事なポジションなので、技術以外のところもすごく大事なポジションなんです。そういうところも伝えられればなと思って、みんなで食事に行ったりしていました。僕もそうやって先輩方からいろいろ教わってきたので、そういうところも伝えたいと思っていました」

Q.J1昇格をサポーターと一緒に喜びを分かち合いたいということですが、引退後はサッカーや水戸ホーリーホックとどのように関わっていく予定でしょうか?

「まだ引退する実感はなくて、僕がやりたいことはやりたいと思っています。僕自身、自分のことより、何かのために取り組んだ時に力を発揮できる人間だと思っています。必要とされるところで、愛するサッカーに携わっていければいいと思っています。あとはGKですね。GKの成長や育成に携わっていかなければいけないと思っています」

Q.本間選手が考える「水戸ホーリーホックらしさ」とはどういったものだと思いますか?

「やっぱり粘り強さとか、諦めないとか、そういうものですね。戦うとか、泥臭さとか、数々の奇跡を乗り越えたクラブですし、そこにはたくさんの人の思いが込められていますし、いろんな人が命をかけてやってきたのを目の当たりにしてきました。そういう人たちのことを考えて出てくる言葉は、そういう言葉になりますね。下から這い上がっていくものの強さを、これからも水戸ホーリーホックとして見せていければいいと思っています」

Q.今まで対戦して印象に残った選手は? また引退後に連絡してきた選手や人から印象に残った言葉などはありましたか?

「たくさんいますね。パッと思い出したのは香川真司選手。彼が17~18歳ぐらいの時にJ2で対戦した時、ものすごい選手が出てきたなと感じたのを思い出しますね。彼がDFラインの裏でボールを持った時、GKの僕とパッと目が合ったんですよ。『すごいな、この子』と思いましたよ。マンチェスター・ユナイテッド在籍時にハットトリックを決めた時、それが人生で2度目のハットトリックだったらしいんですけど、一度目のGKは僕でしたね(笑)。すごく印象に残っています。

チームメイトで印象に残っているのは、最近いろんないい選手が羽ばたいていきましたけど、前田大然は会った瞬間から持っているものが違うと思いましたし、代表クラスにはなるだろうなと感じていました。メンタリティも素晴らしい選手。

あと、一番印象に残っている選手は岡野雅行さん。浦和時代、公私ともに大変お世話になりました。フランスワールドカップのアジア予選でワールドカップ出場を決めるゴールを決めた選手です。当時、チームメイトで、長い時間一緒に過ごしていました。その人が突然、最後の試合でベンチ入りしてゴールを決めて、日本をワールドカップに導いたんですから、驚きましたよね。大好きな先輩がすごいことをやってのけて、人生が変わる瞬間を目の当たりにすることができました。当時僕はボディガードのようにいつも岡野さんを守っていましたけど(笑)。足の速さがすごかったですけど、それだけではなく、間合いの取り方というか、駆け引きのところで感覚的な真似できないような才能を持っていましたね。そういう人に教えられない部分は大事にした方がいいんだなと僕自身学びました。岡野さんにはすごくお世話になりましたし、今回引退を決めるにおいて、相談させていただきました。

それと、さっき控室にいたら、すごくうれしいことがありまして。(机の下からユニフォームを取り出す)三浦知良選手からサイン入りのユニフォームが届きました。カズさんは日本サッカー界のキングですし、僕も小さい頃から見ていました。横浜FCに移籍してから、J2で何回か対戦してもらいました。ケーズデンキスタジアム水戸でカズダンスを決められたこともありましたね。プライベートで合わせてもらったのは3~4年前。水戸にいた中里(崇宏)に紹介してもらって、カプチーノを飲みながら、一緒に話をしました(笑)。僕も試合に出られず、苦しい時にカズさんのサッカーに対する純粋な気持ちに触れて、もう一回本気でポジションを掴みに行こうと奮い立つことができましたし、サッカーに対する本気度の甘さをすごく感じました。サッカーに失礼がないように頑張ろうと思いました」

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Q.本間選手にとって、水戸ホーリーホックとはどんな存在でしょうか?

「人生ですね。このクラブで育てていただきましたし、たくさんの仲間たちとも出会えました。大切な人ともたくさん出会えた。本当に水戸ホーリーホックという奇跡のクラブにプレーヤーとして26年間関われたことを嬉しく思っています。水戸ホーリーホックだったから、ここまで長くプレーできたと思っています」

Q.残り5試合、プロフットボールプレーヤー本間幸司として、どのようなものを残したいとお考えですか?

「何が残せるかは僕には分からないですし、今までもたいしたことを残せていないので、僕に何ができるか分かりませんが、最後までこのクラブのためにすべてを捧げ、戦っていく姿を見せる。それしかないですね」

Q.本間選手にとって「1」とは?

「小さい頃からサッカーをしていて、GKは1番というイメージがあるので、普通かなと思っていました。でも、何か記念日があれば、1は入れるようにしていました。1という数字は好きですね。いろんなことで1番にはなれませんでしたけど、1番を目指してやってきたので、これからも1番を目指していろんなことにチャレンジしていきたいと思います」

Q.他の番号をつけると違和感がありますか?

「ホーリーホックに来た時、最初は31番でした。あまり背番号にこだわりはないんですけど、1番がしっくりきますね。他の番号をつけろと言われたら変な感じがありますね。開幕前の練習試合でメンバーを隠すために違う背番号をつけることがあるんですけど、1以外だと違和感はありますね」

Q.小島社長に質問ですが、今後、本間選手とクラブの関りについて考えていることは?

小島社長「当然、僕個人としても、クラブとしても、考えはあるんですけど、今日の会見で何度も話をされている通り、残り5試合がありますし、今日の会見を一つの区切りとして明日の練習から、試合に出るために、チームの勝利のために、すべてを捧げてくれると思っているので、来年以降のことは次の歴史を作るにあたって、クラブとしていろんなことに挑戦してほしいという思いはあるのですが、具体的なことはシーズンが終わってから話す予定です。引退試合に関しても、本間選手の意向に沿った形でいい準備をした上で実現できればいいと思っています。クラブとして、これだけの歴史を作ってきてくれた選手ですから、しっかりとリスペクトを持っていい形で送り出したいと思っています。前提としては、残り5試合の時間の中ですべてをプレーに捧げるところからはじまっているので、クラブとしては5試合を心身ともにいいコンディションでプレーできる環境を作ってあげたいと思っています」

Q.今年は日立市のPR大使を務めました。2年前に日立市がホームタウンに加わって、今年はPR大使として活動してきました。いかがでしたか?

「念願の日立市のPR大使になれたことはすごく嬉しかったです。僕は日立で生まれ育った人間なので、その土地で活動したい思いは強かったです。僕の礎を作ってくれた町。次の試合(清水戦)は『日立市の日』として開催されるので、出場できるように明日のトレーニングからアピールしてやっていきたいです。日立市のみなさんに僕が頑張っている勇姿を見せたいです。9月1日に日立市で大宮と試合をした時、たくさんの仲間や懐かしい人たちが見に来てくれて嬉しかったです。これからも日立市でいろんなことをやっていきたいと思っています」

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著者プロフィール

Jリーグ所属の水戸ホーリーホックの公式アカウントです。 1994年にサッカークラブFC水戸として発足。1997年にプリマハムFC土浦と合併し、チーム名を水戸ホーリーホックと改称。2000年にJリーグ入会を果たした。ホーリーホックとは、英語で「葵」を意味。徳川御三家の一つである水戸藩の家紋(葵)から引用したもので、誰からも愛され親しまれ、そして強固な意志を持ったチームになることを目標にしている。

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