「セルティックは私のクラブ」ファンタジスタ中村俊輔がセルティックで過ごした4年間を振り返る|セルティックFC

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サポーターのヒーローであった中村俊輔。日本のファンタジスタがセルティックで過ごした4年間を振り返ろう

独占インタビュー:RYAN MAHER&中島大輔(こちらの記事は2022年4月に作成されたものです)


セルティックサポーターにとって象徴的な存在である中村俊輔。彼の努力の美学、職人気質、魔法のような瞬間を生み出すプレー、チームへの静かな献身、そのすべてがファンの心に響き、クラブの偉大な存在としての彼の地位を確かなものにしたのである。
しかし、彼は脚光を浴びることを避けた選手でもあった。グラスゴーで4年間過ごしたものの、英語の習得は常に発展途上であったため、人前で話すことは決してなかった。サッカーの常套句でもあるが、彼は全てをピッチ内のプレーで語っていた。
しかしそれでも、セルティックのサポーターとの絆が失われることはない。

2006年のチャンピオンズリーグ、マンチェスター・ユナイテッド戦での勝利のゴール……彼はゴールを決め、ユニフォームの胸のクラブロゴを力強く握った。
2007年のキルマーノック戦での優勝を決めたゴール……中村は何よりも優先して、ファンのもとに駆け寄った。
セルティックのサポーターは、中村から言葉をかけられなくても、彼に惚れ込み、共にクラブを愛していることを知ったのだった。
時が流れても、彼のクラブへの思いは薄れることはない。現在43歳、日本の横浜FCでプレーする中村俊輔は、セルティック・ビューの独占インタビューでスコットランドでの日々をこう振り返る。

中村
「セルティックでの4シーズンは、僕にとって夢のような時間でした。良いプレーができたし、グラスゴーで家族と過ごす日々も充実し、サポーターやセルティックパークは本当に最高でした。セルティックは僕のクラブです。僕の人生を豊かにしてくれました。」
「最近、レンジャーズの試合を見て、スコットランドにいた頃を思い出しました。あの雰囲気は素晴らしいし、グラスゴーならではのもの。あのファンたちは私の家族のようなものです。彼らから拍手喝采を浴び、あの時の自分にとって全てが特別でしたね。」

2005年、中村がセリエAのレッジーナからセルティックに移籍した当時、インターネットはまだ黎明期だった。
X (Twitter)はまだなく、YouTubeも始まったばかりで、選手のハイライト映像を検索することは一般的ではなく、選手にとって海外移籍は未知なことだらけだった。

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日本代表の中村は無名の選手ではなかったが、セルティックへの移籍を好奇心で見るファンも少なからず存在した。中村自身、スコットランドのサッカー界に挑戦した当初は、自分がどう通用するのかよくわからなかったようだ。
「ゴードン・ストラカン監督は、2005年のFIFAコンフェデレーションズカップで、僕が日本代表としてプレーしているのを見ていました。」と中村は言う。「彼が私の移籍を望んでいましたし、私自身にとってもセルティックは、毎シーズンチャンピオンズリーグを戦っている魅力的なクラブでした。」
「正直なところ、当時はドイツやスペイン、イタリアのチームも考えていましたが、セルティックは世界的に有名なクラブなので、最終的にはそこに行くことを決断しました。」
「初めてスコットランドに行ったとき、アウェイでマザーウェル戦を観戦したのですが、ロングボールが飛び交い、正直、適応するのが難しいなと感じたのを覚えています。短いパスを多用するチームを作るために、ストラカン監督は私を呼んだのでしょうね。最終的にはそのようなチームになりました。」

彼のデビューは2005年8月6日、ホームでのダンディー・ユナイテッドとの試合。ジョン・ハートソンとクレイグ・ビーティーがゴールを決め、セルティックは2-0で勝利したが、この試合でマン・オブ・ザ・マッチ賞を受賞したのは中村であった。彼が期待を裏切ることはない。


1年目からリーグ優勝、リーグカップ優勝と成功を収めた中村。しかし、彼の成功を語る上で象徴的な出来事は、2年目以降に現れる。
スコットランドリーグの優勝で、2006/07シーズンのチャンピオンズリーグに出場したセルティック。
マンチェスター・ユナイテッド、ベンフィカ、FCコペンハーゲンと同グループとなったとこの大会は、中村のために用意された舞台となった。
中村俊輔にとって最も印象に残っているのは、あのヨーロピアン・ナイト。雰囲気が最高潮に達し、ファンで一杯のセルティック・パークは、まるで要塞のようだった。この舞台で、中村俊輔の記憶に残る試合が繰り広げられた。
2006年11月21日、セルティック・パークで行われたマンチェスター・ユナイテッド戦で、中村俊輔が放った一撃はセルティックの歴史の1ページとなる。試合は0-0で残り時間9分、セルティックは敵陣中央やや右、ゴールから約30メートルの距離でフリーキックを獲得した。
ゴールからは遠目の位置で、多くの者が直接狙うことはないだろうと考える中、中村は名手ファン・デル・サール牙城を突き破る見事なシュートをゴール隅に叩き込んだのだ。このゴールによりユナイテッドを破ったセルティックは、クラブ史上初のチャンピオンズリーグベスト16入りを果たした。
中村は当時を思い出しながら、こう語る。「あのフリーキックを見返すと、とても遠い距離ですね。今はもう43歳になりましたし、このシュートはもう無理ですよ!」

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「試合直後、ストラカン監督が僕のところに来て、『なぜあんなに遠くからシュートを打ったんだ』と冗談を言ったんです。あれは僕の得意な距離で、相手はファン・デル・サールという名GKでしたが、完璧なキックを蹴ることができました。その後、ボルツがPKをセーブし、最高の状況でマンチェスター・ユナイテッドに勝利。最高の夜でしたよ。」
中村の所属中の4年間で、セルティックはチャンピオンズリーグのグループステージに3回、ベスト16に2回進出した。ヨーロッパの強豪がセルティック・パークで返り討ちにされるというのは、クラブにとって特別な時間だった。
中村「ホームで負けるなんて想像もできませんでした。セルティック・パークは、サポーターがあのような圧巻の雰囲気を作り出す唯一のスタジアムなのですから。」
「セルティック・パークは、私がこれまでプレーしてきた中で最高のスタジアムであり、応援の影響力を教えてくれました。ピッチに立つと、どんな相手でも倒せると感じましたよ。」
「バルセロナとのベスト16では、2試合とも1点差で負けてしまいましたが、本当に印象的でした。セルティックでバルセロナのような強豪を相手にプレーし、自分を高めた試合でした。」
「これらの夜の雰囲気は最高でした。毎試合セルティック・パークは満員で、私にとって貴重な経験になりましたよ。」


もうひとつの特別な出来事は、2008年のレンジャーズ戦でのゴールだ。シーズン終盤のタイトルの争奪戦において、2-1の勝利に貢献した決定的なゴールであった。最終的にチームのリーグ優勝に大きく貢献したダービーでのゴールである。
中村がセルティックで決めた33ゴールのうち、フリーキックやミラクルショットといったゴールは数あれど、この試合での決勝点は、彼にとって最も重要なゴールのうちの1つである。
中村「レンジャーズ戦でのゴールは、まさかあんなに力強く振り切れるとは思っていませんでしたが、ダービーでようやく得点できて、大事な試合の勝利に貢献できたので、本当に嬉しかったです。」
「でも、2006年のダンディー・ユナイテッド戦で決めたループシュートも大好きなんです。年間最優秀ゴールを受賞した、美しいフィニッシュでした。試合には引き分けましたが、デレク・レオダンの3点目のゴールで勝つチャンスがあったんです。そこだけが悔しいですね。」

セルティックでの4シーズンの間、中村はリーグ優勝3回、リーグカップ2回、スコティッシュカップ1回、そして多くの個人賞を受賞し、2009年にエスパニョールへ移籍した。
しかし、彼の選手としての物語はまだ終わってはいない。
43歳の現在も横浜FCでプレーしており、昨シーズンもトップリーグでプレーしていたのだ。
日本のメディアが彼に注目するのは、セルティック時代から変わらない。
「いいプレーをしたときは、日本のテレビや新聞でいつも僕のニュースが流れています。そういうこともあり、みんなセルティックのことを知っていますよ。」

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「セルティックは、僕が以前所属していた横浜F・マリノスと日本で親善試合をしたことがあるんです。その時のセルティックは大注目されましたね。ハートソンやマクギーディ、ペトロフ、ボルツ、レノン、マローニーといったビッグプレーヤーが揃っていました。ロイ・キーンとも6カ月間一緒にプレーしましたし、本当に特別な時間でした。」
「素晴らしいチームメイトに囲まれ、良いサッカーをすることができ、僕にとって完璧な環境でした。」
「この4年間で自分自身を成長させることができたセルティックには本当に感謝しています。全てが特別な瞬間で、家族で振り返っても、スコットランドとセルティックでの生活はとてもいい思い出です。」


グラスゴーでの生活
中村俊輔は、レッジーナで3年間を過ごしたイタリアですでに日本以外の国の生活を体験していた。
イタリアはスコットランドとは似ていないため、2005年にセルティックに移籍した際も、新しい文化や言語に順応するのに時間がかかっただろう。
グラスゴーでの4年間は、英語を十分に理解するには短かったかもしれないが、彼は第二の故郷であるこの街について学び、この街のすべてを経験することに全力を尽くした。

中村はこう話す。「スコットランドの雰囲気は、イタリアよりも日本に似ています。スコットランド人は他人をより尊重するんです。」
「彼らの言葉や振る舞い、文化はとても居心地が良かったですし、チームメイトやストラカン監督、そしてサポーターの皆さんは、私と私の家族を本当に歓迎してくれました。」
「長男が3、4歳のときに引っ越したので、英語は話せませんでしたが、みんな長男と妻にとても親切にしてくれました。妻はグラスゴーになじみ、楽しく暮らしていましたよ。」
「よく行く日本食レストランや、お気に入りの食品が手に入るスーパーマーケットがあり、故郷の味を味わえたのは大きかったですね。また、お気に入りのイタリアンレストランが2軒あり、そこにもよく行きました。」
「スコットランドの料理も食べました。ハギスは好きでしたが、フィッシュ&チップスは油っぽいので、食べられませんでした。」
「グラスゴーの第一印象は、雨が多くて、ちょっと暗いというものでしたが、最初から気に入っていましたよ。」
「子供たちをプレイルームに連れて行き、ボーリングに行ったり、動物園に行ったりと、休日はいつも子供たちと一緒に過ごしていました。懐かしい思い出ばかりです。」


ジャパニーズボーイズは大活躍できる
近年、彼のセルティック時代の頃と比べ日本での注目度は落ち着いていたかもしれない。
しかし、古橋亨梧、旗手怜央、井手口陽介、前田大然らがJリーグからスコティッシュ・プレミアシップに移籍し、彼や日本人のセルティックに対する関心はこの12ヶ月でますます高まってきている。

9,000km以上離れた地 でセルティックを見守る中村は、海外の選手たちに目を配りながら、日本のサッカーファンたちのクラブへの関心が高まっていることを目の当たりにしている。
中村「古橋選手がセルティックと契約したとき、前嶋洋太選手を介して知り合いました。古橋選手とはそれ以来の友人ですね。」
「それまで対戦したこともあったし、挨拶もしたことはありますが、彼とは特別な関係ではなかったんです。」
「スコットランドのメディアは、ことあるごとに私と比較するだろうけど、そんなことは気にしないで、スコットランドでのプレーを楽しんでくれと彼に伝えました。チャ・ドゥリやキ・ソンユンのようなアジア人選手も何年か前にいましたから、比較されることを気にせず、自分のプレーを楽しむようにと。」
「アンジェ・ポステコグルーが指揮を執り、4人の日本人選手が活躍しているのを見るのは、本当に嬉しいです。セルティックは、本当にいい日本人選手を獲得したと思います。井手口選手は日本代表として10試合以上のキャップを持ち、素晴らしい才能を持っていますし、旗手選手は日々成長していて、日本で2つのリーグタイトルを獲得しています。前田選手はとても足が速く、現代サッカーに必要なすべての能力を持っており、監督のスタイルにもマッチしています。」
「将来、より多くの日本人選手がセルティックに入団し、クラブに貢献してくれることを願っています。同時に、元チームメイトで、現在は現地でコーチをしているスティーブン・マクマナスの幸運も祈っていますよ。」「今の私は、日本から応援するのセルティックサポーターの一人ですが、彼ら日本人選手が皆、クラブの歴史に名前を刻むことを願っていますし、彼らの幸運を祈っています。」
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著者プロフィール

セルティックFCは1887年に設立されたイギリス・スコットランドの名門サッカークラブで、グラスゴーに本拠地を構えます。世界的に有名なサッカークラブで、2005-06シーズンから2008-09シーズンまで中村俊輔選手が、2007-08シーズンから2009-10シーズンまで水野晃樹選手が所属していました。特に2006年11月、チャンピオンズ・リーグのマンチェスター・ユナイテッド戦で中村選手が決めたフリーキックは、現在でもファンの間で語り継がれています。

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