バティスタ来日インタビュー「ものすごくリングが恋しいよ」=WWE

鶴田倉朗

現在、負傷欠場中のバティスタはWWEの“親善大使”として日本公演をPR 【(c) 2009 World Wrestling Entertainment Inc. All Rights Reserved.】

「レッスルマニア25」(4月5日、テキサス州ヒューストン)とWWE日本公演(7月7、8日、東京・日本武道館)のプロモーション活動のため“ジ・アニマル”ことバティスタが来日。わずか3日間の滞在ながら、リング上と同様、精力的に動き回り、WWEの“親善大使”を務めた。そして、分刻みの多忙なスケジュールの合間を縫って、スポーツナビ用インタビューにも応じてくれた。バティスタは外見とは裏腹の内面を持っていた――。

リングを離れプロレスへの愛を実感

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――現在、負傷で欠場中ですが、その回復具合を教えてください。

 だいぶ回復しているよ。医者も回復ぶりには驚いていた。今月中にはメディカルチェックもクリアできると思う。もちろんすぐにでも復帰したいが、今はWWE全体がレッスルマニアへ向けて動いている。そこへ何もなく戻るのは意味がない。だから今は復帰のタイミングを見計らっているというところだね。

――負傷の瞬間は覚えていますか?

 去年11月のヨーロッパ・ツアーのときに左の大腿部を痛めた。断裂だったね。「パンッ!」と何かが切れる音が聞こえて、ケガをしたことはすぐにわかった。だけど、それからも試合には出続けて、結局、MRIを撮ったのがケガから1カ月後、ランディ・オートンのパントキックを受けた時に全身をチェックしてハッキリしたんだ。そのときは歩くのも困難になっていた。それで手術をしたんだが、それからの回復が異常なくらいに早い。普通なら回復まで何カ月もかかるケガらしいが、手術から3〜4日後にはもうトレーニングを始めていた。

――リングを離れてみて、あらためてプロレスに対してどんな思いですか?

 ものすごくリングが恋しいよ。ああ、俺はプロレスを愛しているんだなと実感したね。自分がいないプロレスをテレビで見るのはこんなにも辛いものなのかと思ったよ。レッスルマニアをテレビで見るのはさらに辛いんだろうね。

――年少のころからプロレスファンですか?

 そうだね。今でもだれよりもプロレスファンさ(笑)。ティーンエイジャーのころから見ていたけど、より熱心に見るようになったのは“ストーンコールド”スティーブ・オースチンのころだね。あのころはだれもが見ていたんじゃないか。

――だれのファンでしたか?

 小さいころはウォーロード。

――たしかにタイプ的に今のあなたといているかもしれません。

 そうか、ハッハッハッ。

30歳までナイトクラブの用心棒

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――レスラーを志したきっかけは?

 90年代後半かな、ちょうどオースチンの時代にWWEの“マンデーナイト・ロウ”とWCWの“マンデーナイトロ”が張り合っていて、一気にこのジャンルにのめり込んだ。新しいキャラクターも出てきて、WWEはDジェネレーションX、WCWはnWoなんかが魅力的だった。ああ、俺もこんなふうになりたいと思ったんだ。30歳になろうとしていたときだったね。

――それまではどんな仕事を?

 ナイトクラブのバウンサー(用心棒)だ。並行してボディービルもやっていたが、生活するためにバウンサーをしていた。当時はボディービルの世界で成功するのが夢だった。

――レスラーとしては遅いデビューだったと思いますが、焦りはなかったですか?

 時間のことはまったくといっていいほど考えなかった。何歳くらいでプロレスデビューするものなのか知らなかったというのもあるし、20代後半でもまだ十分若いと思っていたからね。不安もまったくなかったね。

――レスラーになるためにだれのもとでトレーニングしたんですか?

 最初に行ったのはペンシルベニア州アレンタウンにあった、ザ・サモアンズのアファ・アノアイのレスリングキャンプ。そこから当時のWWEのトレーニングスクールだったOVW(オハイオ・バレー・レスリング)。そこには2年いたのかな。それからWWEへ昇格して“スマックダウン”のコネティカット州ブリッジポート大会でWWEデビューした。それが2002年の5月だった。

――WWE入りのきっかけとなったOVWへは、自分でコンタクトを取ったんですか?

 いや、アファだった。アファがすべてをやってくれた。そしてトライアウトを受けて次の日に契約の話が来た。アファは会った初日に、もう家族のように接してくれたし、俺を特別かわいがってくれた。俺はほかのヤツらよりデカかったからね。アファは恩人だよ。今でも連絡は取っているよ。

――昔から体は大きかったんですか?

 常にほかのやつらよりも大きかったね。筋肉質だったのもたしかだ。テニス、バスケットボール。高校に入ってからはフットボール、陸上、アマチュアレスリング。なんでもやったね。でも、それ以外はごく普通の少年だったよ。ぜん息の持病があったからいつも吸引器を持ち歩いていた。みんな意外に思うらしいが(笑)。

いつの間にか“バティスタ”になっていた

リングを離れ改めてプロレスへの愛を実感したというバティスタ 【(c) 2009 World Wrestling Entertainment Inc. All Rights Reserved.】

――出身は?

 ワシントンDC。1969年1月18日生まれで、本名はバティスタではなくバウティスタ(Bautista)。フィリピン人とギリシア人のハーフさ。

――リングネームは本名にしたかったんですか?

 いや……いつの間にか、こうなっていた。だれが決めたのかもわからない(笑)。覚えているのは、初めてWWEに呼ばれたとき、スーツを持ってこいと言われて一張羅を着ていった。どんなキャラクターで登場するのかも知らされないままね。そしたら突然、両袖を切られてしまった。それは慌てたよ。なけなしの500ドル(約5万円)をはたいて買ったスーツさ。俺にとっては大金もいいところだ。それから俺のポジションはディーボン(・ダッドリー)のボディーガードで、デビューは1週間後だということだけ伝えられた。だけど、リングに上がってもディーボンが俺を紹介するはずが間違えてしまった。だから俺の名前のところだけあとで吹き替えをした。

――さすがのあなたでもWWEデビューは緊張しましたか?

 緊張どころじゃないね。恐れをなしていたよ(笑)。今でもそうなるときがある。デビューはディーボンがトリブルHと戦う試合だった。トリブルHはOVWにいたときからトップ選手だった。当時の俺は訓練生みたいなもの。それが神みたいなトリプルHをリングから投げ飛ばしたんだ。かなりのプレッシャーだったね。

――そこから現在の地位を築くまでターニングポイントとなった試合や出来事は?

 それは間違いなく2005年のレッスルマニアのトリプルH戦。俺のキャリアでベストマッチではない。だが、ターニングポイントとなった試合、光栄に思える試合だね。目の前にはトリプルHがいて、リングサイドにはリック・フレアーがいた。どちらも俺が憧れていた選手だ。そしてふたりからはいろんなことを教わってきた。そのふたりから独立してやっと独り立ちできた試合だった。(後編に続く)
■WWE日本公演「WWE SMACKDOWN LIVE」
7月7日(火)、8日(水) 東京・日本武道館

■「レッスルマニア25」放送スケジュール
・4月16日(木)22:00〜 スカパー!、スカパー!e2でPPV放送(視聴料金2100円/回)
・4月17日(金)〜 J:COMオンデマンドにてVOD放送(視聴料金2100円/回)
・4月18日(土) パブリックビューイングイベント※詳細はWWE JAPAN公式サイトで発表

■WWEのレギュラー放送「ロウ」「スマックダウン」「ECW」はJ SPORTSで好評放送中
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著者プロフィール

90年代、黄金期の週刊プロレスで四天王時代の全日本番記者を務め、ジャイアント馬場の絶大な信頼を勝ち取る。フリー転向と同時に渡米。WWEから柔術まで、また米国内にとどまらずイギリスからブラジル、パラオまでと、取材対象と守備範囲を一気に広げる。更には2004年から東京スポーツのマリナーズ番として、イチローを中心に日本人メジャーリーガーを密着取材。ライティングもカメラもこなす国際感覚豊かななんでも屋。

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