橋本真也「爆勝宣言」を作った男・鈴木修氏にインタビュー
新日本プロレスで武藤敬司、蝶野正洋とともに“闘魂三銃士”として一時代を築き、小川直也との死闘、ZERO−ONE旗揚げなど波乱万丈なプロレスラー人生で多くのファンを魅了した橋本真也さん。2005年に脳幹出血でこの世を去るまで、数々の名場面をプロレスファンの脳裏に焼き付けた選手だ。そして、橋本真也と聞いて思い浮かぶのが、入場テーマに使用していた名曲「爆勝宣言」ではないだろうか。会場全体を包む「ハ・シ・モ・ト!」コール、そこへ白い鉢巻とともにリングへ向かう勇ましい姿……。
この「爆勝宣言」を作り出したのは、プロレスファンにはお馴染み“ミスター・プロレステーマ”こと作曲家の鈴木修氏である。その鈴木氏が今秋、オリジナルニューアルバムを発売することが決定。これに先立ち、アルバムにも収録される「爆勝宣言」のオーケストラver.が、橋本さんの命日にあたる11日にデジタルシングルとして先行配信されることになった。今回、スポーツナビが「爆勝宣言」オーケストラver.完成直後の鈴木氏にインタビューを敢行。なぜオーケストラバージョンの制作を決意したのか、そこには「橋本さんとの約束」があったと語る鈴木氏。仕事の関係以上に“親友”として長年近くで接していた橋本さんの素顔、「爆勝宣言」制作の裏側、そしてプロレステーマ曲の作り方などを、あますところなく語ってくれた。
テーマ曲の生涯傑作は4つ。橋本選手の曲と……
「ワールドプロレスリング」の音響効果を担当していたんですが、当時は作曲というシステムが確立していなくて、入場は「選曲でやりなさいよ」というものでした。権利関係の整備もまだできていなくて。そんなとき、橋本選手が凱旋帰国してきて入場曲を選曲したんですが、いまいちイメージに合わないと言われた。海外から帰ってきたばかりの若い選手が、そこまで言うのかなとギクシャクしましたね。
そこで自分も若かったですから、「じゃあレコードライブラリーに行って、何万枚かある中から好きなものを選べばいいじゃないか」と言ったら、橋本選手は「あぁ、いいよ分かったよ」と言って何時間か聴いて出てきた。そして「これがいい」と言って持ってきたものを、埼玉・戸田市民体育館の試合でかけたんです。その後、(しっくり来なかったようで)試合が終わった直後に私のもとへ来て、「鈴木さんの言ったとおりだ」と言って(制作を)お願いしてきた。じゃあ、「いいものを二人で作ってみましょう」ということで作曲してできたものが、この「爆勝宣言」という曲です。
――爆勝宣言に関して、橋本選手から「こういうふうにしてくれ」という要望はありましたか?
とにかく「カッコいい、猪木ボンバイエを超えられるやつを作ってくれ」と言われましたけど、ちょっとそれは超えられないかなと(笑)……。当時はすごいハードロック、ガチャガチャした曲が流行っていた。だから最初この曲を作ってみんなに聴かせたとき、「こんなシンセサイザーの音楽で、こういうメロディで、違うんじゃない?」という意見もありました。実際この曲を提供して橋本選手が使ってみて、個人的にいろいろと要望はあったと思いますよ。もっとこうしたいとか。だけど、定着したし、自分もイメージ付けできたからと。
それで、いつか「オーケストラでやろうな」っていう話しはよくしていました。ZERO−ONEを立ち上げた時(2001年)に、そういう話に1回なりました。でも自分の後押しが足りなくて、結局オリジナルの曲を使うことになった。だから急に亡くなられて、自分としても約束を果たせなかったという思いが……。橋本さんが亡くなられたあと、1年以上だと思うんですが、楽器のふたも開けてなくて全く活動することができなくて。自分のなかでは、本当は分かっているんだけど、亡くなったことも度が過ぎたイタズラなんじゃないかというのが、どっかでまだちょっとありました。とにかく、その当時は気持ちの整理がつかなかったですね。
――今回はどんな気持ちで制作に当たられましたか?
前奏の部分が少し追悼のイメージになっています。それ以降は、ほとんどオリジナルのままオーケストラで演奏しました。今回、演奏する方たちはトッププロの人たちで、演奏に関してはほとんど注文の付けようがないレベルの高さです。よい作品になったなと。自分なりに一生懸命ギターも弾いたつもりですし、いいものになりました。みんな出来上がったものを聴いて、よく言ってくださるので素直にその言葉を信じていい出来になったと考えています。
橋本選手の「爆勝宣言」、武藤敬司選手の「HOLD OUT」、小橋建太選手の「GRAND SWORD」、小島聡選手の「STYLUS」が自分のなかで生涯傑作になったなと思いますね。
タイトル「爆勝宣言」の由来
橋本選手とは長い付き合いの友人で、最初のころテーマ曲を作ったとき以外は仕事の話はほとんどしたことがありませんでした。あとはプライベートの遊び仲間。仕事の機会をいただいた恩人で、そして尊敬する人でもあり、世話のやける友だち……いろいろな付き合いでしたね。
――こども心を持った人だとよく言われますよね
こどもの夢を持ったまま大きくなってましたね。だけど、常識的でなければいけないときとか礼儀作法に関して、完ぺきにすごいところはあった。ところが、坂口征二さんのパンツを洗い忘れて、付け人をクビになったりとかもあって。このへんがよく分からない(笑)。坂口さん、すごいかわいがってましたけど。
――では鈴木さんにとって橋本選手はどういうレスラーでしたか?
レスラー、格闘家としては強引。自分は負けないんだという信念……いい意味での思い込みを持っていた人でした。なかなかあそこまで上に行くというような評価はなかったと思うんですよ。だけど無理を通したところが結構あるような人で。普段は本当に優しい人なんですよ。だけど、相手が仕掛けてきたりすると、すぐにスイッチが入る人でね。上背はそんなにないけど、湧き出るような闘志がありました。自分が見てて、いつも河原で一緒に遊んでいる人と会場で試合をやっている時の人と、全くの別人でした。
――ちなみに「爆勝宣言」というタイトルも鈴木さんが付けられたんですか?
私が考えました。橋本さんはある意味、行動がギャグのところもあるし、本気ですごいところもあって、よく分からないところがあった。ただ、自分はトップに立つんだということに関しては陰りがないというのが分かっていたし、勝ち続けるんだという爆発的なものを感じていたので「爆発的に勝つ」。そして、自分はやるんだと普段から公言しているわけですよ。だから自分で「宣言」しているじゃないかということで、「爆勝宣言」にしました。わりとインスピレーションですね。
――1回、橋本選手は「爆勝宣言」からテーマ曲を変えられましたよね?
なんか一瞬、変えたらしいですね(注:一時期「闘魂伝承」というテーマ曲に変えるも、すぐに元に戻した)。ちょっと私も耳にしまして、なんてことしやがるんだと。それを確かめてやろうと思っていたときには、もう元に戻っていた記憶が。その前後でカウボーイハットをかぶって歌を唄ってCDを出したんです(注:「橋本元年」)。あのころは「中山美穂さんと結婚するんだ俺は」みたいなことを言ってましてね。しかも、あんな歌まで出して。今で言う「KY」はあなただよと(笑)。
周りはなかなか言わないんだけどね。自分がそのCDの音楽を担当しなかったという嫉妬もあるんだけど、はっきりと「思いっきりハズしてるから。違うと思うよ」と言った。そしたら「そう思う?」って橋本さんはショックを受けてました(笑)。それまでは、俺もついにレコードデビューしたなんて言ってましたけど。「え? 世間てそういうふうにオレのこと見るのか」って落ち込んでました。大まじめにやってたけど、CDの売上枚数とかで気がつくだろうって(笑)。それでも「もう少し経ってみないと」なんて言ったり。ああ見えて繊細でね。
――さて、今回の「爆勝宣言」オーケストラver.は橋本選手の長男・大地君にプレゼントするということですが、お会いになったことは?
橋本選手のお通夜のときに、和美さん(元夫人)と大地君に会いました。橋本選手が初めてIWGPのベルトを獲ったときに、橋本さんの自宅に行って写真を一緒に撮ったりベルトを巻かせてもらったりしたんですが、そのときの大地君は本当にまだ小さくて。小さいころから知ってますが、それから亡くなるまで間が何年かあって、亡くなったときに会ったらずいぶん立派になっていた。今度、贈呈するのは(7月13日のZERO1−MAXディファ有明大会)楽しみでもあります。