【FC町田ゼルビア】エリートではなかった男が流した初めての悔し涙
アルアハリ・サウジとのACLEファイナルズ決勝。相手が一人退場者を出し、町田は数的優位となりながらも延長戦で決勝点を許し、0-1の敗戦。ピッチにペットボトルが投げ入れられるなど、相手サポーターがスタジアムを埋め尽くす完全アウェイの中、前年度王者に最後まで奮闘した。岡村大八本人もやれた手応えはあった。だが、失点してしまった。何かが足りなかった。初めてと言っていいほどの刺激的な国際大会だったからこそ、心に押し寄せた反動は大きかった。
それは“苦労人”がピッチ上で初めて流した悔し涙だった。
エリートとは程遠いサッカー人生を歩んできた。3歳上の兄の影響で2歳頃からボールを蹴り始め、幼稚園、小学校と街クラブでサッカーを続けた。当時のポジションは左SB。ただ、県トレセンなどに選ばれるほどの実力があったわけではない。小学校から中学校に上がるタイミングで、4~5チームの街クラブに加え、FC東京や横浜F・マリノス、川崎フロンターレといったJリーグクラブの育成組織のセレクションを受けたが、結果はすべて不合格だった。
「フロンターレも最終選考まで行ったり、一次で落ちることはどこもなかった。ただ、メチャクチャ上手いわけでもなく、身体能力があるわけでもなく、体が大きいだけのそこらへんでサッカーをやっているレベルだったと思います」
中学は部活動でサッカーを続けることも考えたが、小学生時代のコーチが神奈川県で独立して立ち上げた『FCオルテンシア相模原』に勧誘されて加入。そこでも全国大会に出るなどの目立った成績があるわけではなく、個人としても地区トレセンにさえ入っていなかった。
そんな岡村にとって、プロとしての礎となったのが前橋育英高校への入学だ。『FCオルテンシア相模原』の監督が前橋育英と繋がりがあることに加え、「親は都立の高校に行ってほしかったみたいですが、受験勉強もしたくなくて(笑)。親元を離れて寮に住んでサッカーをやりたいという思いで前橋育英に行きましたね」(岡村)。
『前育(マエイク)』の愛称で知られる同校は、これまで100人以上のJリーガーを輩出してきた高校サッカー界の名門中の名門。同期には現在はイングランドでプレーする坂元達裕や渡邊凌磨(浦和レッズ)、鈴木徳真(ガンバ大阪)、小泉佳穂(柏レイソル)など、海外やJ1で活躍するプレーヤーが揃い踏みし、3年次の最後の全国高校サッカー選手権大会では準優勝となった強力世代だった。
「前橋育英に行ってなかったら、プロになっていなかったと思います」
今も岡村はそう断言する。ただし、現在の姿からは想像できないが、彼は高校時代にレギュラーだったわけではない。約200人の部員が在籍する大所帯の前育サッカー部では、入学当初に6つのカテゴリーに分かれており、岡村は一番下のチームからスタート。そこから着実にステップアップし、最終学年でトップチームまで上り詰めた。だが、3年夏の高校総体の全国大会ではメンバー入りさえかなわず。さらに冬の全国高校選手権では25人の登録メンバーには入ったが、決勝までの5試合の内、20人のベンチ入りメンバーに入れたのは準々決勝のわずか1試合のみ。それもレギュラーのCBが体調不良になったことで繰り上がりでのメンバーインだった。
「CBで4番手という立ち位置だった。なかなか難しい状況でしたね。一度、レギュラーの選手をはねのけて出させてもらったことがあったのですが、あんまりその試合で良いパフォーマンスが出せなくて、監督にも怒られて、そこからは4番手という位置は変わらなかったです」
全国屈指の強豪校とは言え、そこでレギュラーになれなかった選手がプロ入りを諦めず、より魂を燃やして大学に進むことを決意したのは何が理由だったのか。岡村は最後の選手権のことをハッキリと覚えている。唯一、メンバー入りした準々決勝、スタジアムの電光掲示板に『岡村大八』の名前が載ると、親は泣いて喜んだという。
「逆にオレはそれを聞いて『何をしているんだろう』って。3年間、サッカーをやるためだけに仕送りをしてもらい、寮に入れてもらい、お金を払ってもらったのに、『何をやっていたんだ』と自分は思ってしまった。だからこそ、電光掲示板に名前が載るだけでなく、それを当たり前にして、Jリーグで戦っている舞台を見せてあげたいという、その思いだけでしたね」
高校時代は遊んでいたわけではない。当時から意識の高かった仲間たちと、サッカーに打ち込み続けた。
「高校3年間はメチャクチャ厳しくて、苦しくて、辛い3年間でしたが、サッカーだけに打ち込んだ3年間だったなと思います。高校生だと恋愛とかにいろいろ興味が出てくると思うんですよ。青春と言うか。そんな青春の覚えが一切ない。女の子と出かけるなんてまったくなく、たまに仲の良い友達とカラオケとかに行くぐらい。毎日、ボールを蹴っていました」
それでも奪えなかったレギュラーの座、届かなかったプロの道。ならば、大学へ進んでもとことん突き詰めるのみだと決心した。
「親元を離れさせてもらって、サッカーをやらせてもらっているのは当たり前じゃない。それはすごく幸せなことだと分かっていた。それに加えて、高校が終わるタイミングで親に『ありがとう』と言われた。試合に出ていないですよ。その時は、何がありがとうか分からなかった。何もしていないし、結果も残していない。高校の成績は全国準優勝でしたけど、僕はピッチに立っていない。それも悔しかったですし、だからこそ、大学に進学して、サッカーをやり切って、もしサッカーがダメなら別の道に進もうと思っていました」
どんな境遇に置かれても、目標のためにやり切る力が岡村の魅力だ。特待生として進んだ立正大学は、当時、関東リーグ1部でも2部でもなく、その下の東京都1部。「高校のレベルが高かっただけに、(立正大では)レベルが落ちるなと感じました」(岡村)。さらに意識の面でも「『プロを目指す』と言ったら、仲間から笑われるくらい」だったと言うが、サッカーに集中できる環境はしっかりと整っていた。
「大学もサッカーに打ち込みました。環境がすごく良かったので、学校、宿舎の中に学ぶところもあるし、ご飯を食べるところもあるし、寮もあるし、筋トレ場もある。そのおかげで一切遊ぶことなく。大学は高校よりももっといろんな誘惑がある中で、サッカーだけに集中して取り組めたと思います」
道も徐々に切り開けてきた。「筋肉を増やすために卵の白身だけを食べたり、ロッキーみたいなことをやっていました」と岡村は笑うが、日頃の食事からこだわるようになり、フィジカルトレーニングにも力を入れた。チームも大学3年から関東2部リーグへ昇格し、岡村は夏から試合へ出始めるようになった。そして4年次になるとキャプテンに就任。すると、仲間に意識の変化を求めた。
「それこそ、僕が入った時は、『プロサッカー選手を目指す』と言うのが恥ずかしいぐらいの環境だった中で、僕は大学にプロサッカー選手になりにきている。それを僕は『恥ずかしい』って言わせないような環境にしようと、4年生でキャプテンになった時に最初に決めました。人数が少ないこともあってまとめやすくて、みんなもそれに付いてきてくれた。それがかなり大きかったと思いますね。プロサッカー選手になるために、僕はこの大学に入って、『みんなは違うの?』と言っていたら、みんなも真剣にサッカーに取り組むようになった。そこから毎年、8年ぐらいプロサッカー選手を輩出している。立正大学からプロが出たのは、僕らが14年ぶりとかなんですよ。それが毎年、8年間、継続的にプロが出るようになったのは、そういうみんなの心境の変化なのかなと思いますね」
岡村キャプテンの下、チームは悲願の関東1部昇格を勝ち取ると、自身もついに夢をつかみ取った。12月、当時J3リーグに所属していたザスパクサツ群馬(現ザスパ群馬)への加入内定が発表された。就職活動にも力を入れて不動産会社とメーカーから内定をもらっていたことに加え、プロがダメならば歯科大学に進んで歯科医師の父親の跡を継ぐことも考えていたが、ここでついに父親へ告げた。
「親に『申し訳ない』、『歯科医師にはならない』という話をして、プロサッカー選手に進む道を選びました」
プロでもまさにサクセスストーリーを歩んできた。群馬加入1年目の夏に、J3より一つ下のリーグにあたる当時JFLのテゲバジャーロ宮崎に期限付き移籍も経験した。その時は練習場を転々としており、トレーニング後には公園の水道で体を洗うこともあった。
翌年にはJ2に昇格した群馬に復帰。ここでレギュラーの座を掴むと、次の年にはついに初のJ1となる北海道コンサドーレ札幌へ完全移籍した。そこから4年間の札幌でより経験を積み、2025年に町田へ加入。そして2026年4月26日、アジア最高峰の戦いとなるACLEファイナルズ決勝のピッチに立つことになった。
「逆にあれが0-3や0-5、個人の勝率でも全然勝てていなかったら、悔しさも残らないゲームだったと思います。自分としてはある程度やれたという実感があった中で、一人退場しても崩せなかった自分たちの力不足。相手を抑えることはできたけど、最終的には失点をしてしまった悔しさ。そういうところも含めて、ここまでやってきてあと一歩のところまで行ったのに何が足りなかったのかと。本当に悔しい気持ちになったゲームで自然と涙が出てきました。
高校の時は試合に出ていなかったですし、別の意味での悔しさはあったかもしれないですけど、ああやってピッチの上で泣くことはなかなかなかった。個人としては悔しい、本当に悔しい大会だったし、決勝だったと思います」
29歳の年齢で初めて国際舞台を経験した遅咲きのプレーヤー。これ以上ない刺激的な大会を戦ったからこそ、より募る思いもある。日本代表だ。若い世代が次々に台頭する中で、29歳は決して若い年齢ではない。だが、大学時代もそうだが、不可能だと思われることを口に出し、結果に結び付けてきたのが岡村だ。
「年齢を言い訳にせず、E-1だろうが、ワールドカップが終わったタイミングだろうが何だろうが、やはり日本代表に入ることを目標にしてやらなければいけないと思います。それぐらい日本を代表して戦うことは幸せだと思うので、まずはそこに行くこと。そのためにはチームとして上位にいて、個人としても名を上げるのが一番。また、町田を優勝させて、またACLEのピッチに立つ、そしてACLEで優勝してクラブワールドカップに出たいというのが今の目標ではあります」
では、岡村がここまでの選手になると、一体だれが予想できただろうか。Jリーガーになったことでさえ、高校時代の仲間に驚かれたと言う。「しょっちゅう言われましたよ。同級生のやつらもそうですし、特に1個上、2個上の先輩たちは、『あの大八が』という感じだと思います」。さらに高校時代の恩師も実はこんなことを言っていた。
「僕は知らなかったのですが、札幌か町田にいる時に、前育の後輩の子が挨拶に来てくれた。高校時代は試合にも出ていないし、有名でもなかったので、『オレのことなんか知ってくれてたんだ』みたいな。そしたら、『卒業する時に監督が、今のJリーグで活躍している岡村大八は、オレは一回も試合に出していないと。そういう選手でもこうやってJ1でプレーしている選手がいるから、自分の目が節穴だったということを、これからの大学生活、プロの世界に入ってから証明してくれと言われたんです』と、その選手から聞きました。その時にメチャクチャ嬉しかったんです。山田耕介監督に教わったのはトップに上がってからの数カ月だけだったので、そういうふうに自分のことを言ってくれたのは率直に嬉しかったですし、なんか『見返してやれたかな』と思いましたね」
試合に出られなかった高校時代。レギュラーになれるチームを選んでいたら、もしかしたら、もっと早く花開いていたかもしれない。だが、岡村は進んできた道に後悔はない。
「前育に行って、試合に出られない経験を早々にしたから、逆に今、出られない経験があっても『オレが試合に出られないことは普通だから』と思える。大人になってから試合に出られない経験をしたら、その時の対処の仕方が分からなくて、引退してしまう選手もいると思います。出られないことが当たり前と思えたのは、前育のおかげ。もう一度、同じ局面になっても、また戻って、前育に進むことを決断すると思います」
人生、七転び八起き。岡村大八の歩みは、その言葉を地でいくものだった。
DF 50 岡村 大八(オカムラ・ダイハチ)
1997年2月15日生まれ、29歳。
前橋育英高校から立正大学に進み、2019年に群馬に加入。その後、宮崎への期限付き移籍を経て経験を積むと、2020年に群馬へ復帰してレギュラーを確保した。翌年に札幌へ完全移籍して4年間プレー。2025年から町田に移籍し、主力としてクラブの天皇杯初制覇に貢献。今季の『明治安田J1百年構想リーグ』でもDFの中心としてプレーし、クラブ初のACLEではファイナルまで勝ち進む立役者となった。
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