甑島から世界へ、離島出身の女子ラグビー選手がBeauty Japanへ挑戦した理由 ── 岸本彩華ロングインタビュー【前編】
離島出身の女子ラグビー選手が、なぜ引退後に「Beauty Japan」という舞台への挑戦を決めたのか。鹿児島・甑島(こしきしま)でのルーツから、仕事と競技の両立、そして満身創痍で駆け抜けた現役生活の舞台裏まで、彼女の飾らない言葉でその軌跡を紐解く。表現者、そして経営者としての現在地に迫るロングインタビュー【前編】
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甑島(こしきしま)で過ごした幼少期
学校から帰ったらすぐ釣竿を持って、夜ご飯のおかずを釣りに行ったり、漁協でエビを並べるパッキングのお手伝いをしてエビを貰ったり(笑)。
テトラポット鬼ごっこや、磯でカニを何匹捕まえられるか競ったり、野生的な遊び方をしてました。
大晦日に“トシドン”という鬼がやってきて1年の反省をする風習(ユネスコ無形文化遺産)があるんですけど、それがもう怖すぎて泣き叫んでたことも良い思い出です。
流行が入ってくるのが遅いなど田舎ならではの不便もありますが、近所の家へお邪魔して「夜ご飯はしご」したり、小さいながらに「島の人みんなが自分を育ててくれている」と感じる温かい場所でした。
ラグビーとの出会いは兄の影響
1時間ずっとアヒル歩きをさせられるようなチームだったんですけど、当時の私は中学の強豪バレーボール部に所属していて体力も柔軟性も高かったので走力トレーニングで男子メンバーをどんどん抜かしていくのが気持ちよくて生き生きしてたらしく…(笑)。
見学だけのつもりだったのに監督から『絶対にやった方がいい!』と太鼓判を押されて、そのまま入団することになりました。母もいつの間にか判子押してましたね(笑)。
自ら道を切り拓いた女子ラグビー選手としての道
『何か実績がないと入れられない』との回答だったので、必死に練習して鹿児島県選抜に入って、やっと女子選手としての入学を認められたんです。
男子に混じって練習して、男子相手でもフルコンタクトの練習にも突っ込んでいってました(笑)。
社会人生活と日本代表への夢
仕事は品質管理部で納品書や発注のデータベースを管理する仕事をしていましたが、大卒しか採用していない会社で唯一の高卒社員だったので、周囲の大人に圧倒されながら仕事をしていました。
当時、都内のことは何も知らずに大井町に住んでいたのですが、マンホールが桜の絵だったんですよ。当時『日本代表になること』を目標にしていたので、サクラフィフティーンにかけて『わあ、嬉しいな』って。マンホールに絵が書いてあるだけでめっちゃ喜んでました。
東京山九フェニックスへの憧れ
もちろん見た目だけじゃなくて、太陽生命ウィメンズセブンズで優勝している姿を見ていたので「強くておしゃれなチームでやりたい」と憧れて、自分から監督を通じて売り込みました。
その後、チーム関係者が九州選抜の試合を視察に来てくれて、入団することになりました。
挫折の連続だったラグビー人生
当時フェニックスのトレーナーがニュージーランド出身の方で「ニュージーランドのトップの選手も、脳震盪になってどうしようもない時は1年ぐらいポンと休んだりするから、思い切って休んだら?」と言ってくれて。
みんなともっとラグビーがしたいって思っていたので、1年くらい練習には一切参加せずビデオ撮影などでサポートをしました。やっと復帰して試合に出た瞬間の達成感は全身の毛が逆立つみたいな感じで「よくやったね、自分」って思いながら走ってました。
困難を乗り越えた歓喜の瞬間
もちろんチームの優勝は嬉しかったんですけど、やっぱり悔しさもあって。
でもその悔しさを乗り越えたからこそ、翌年の決勝戦で80分間ピッチに立ち続けて15人制で全国2連覇を達成した時は最高に嬉しかったです。
セカンドキャリアを意識した海外挑戦
直接のきっかけは、オーストラリアの強豪チームであるワラタースとフェニックスの試合を当時のブランビーズの監督が見てくれていて、その時ブランビーズに怪我人が出てプロップの選手補強を検討していたこともあり、私に声がかかりました。
SUPER W のブランビーズでトップレベルのラグビーを経験し、彼女らのようなトップレベルの選手でも仕事をバリバリやりながら、ラグビーをしている姿に刺激をもらいました。
2回目の挑戦はシドニーのローカルチームでしたが、ホーム戦後はクラブハウスで対戦相手や家族も交えてパーティーをするなど、古き良きラグビーの文化を体現したような環境でした。
どちらも共通してるのは「ラグビーが全てじゃない」ってところで、もちろんラグビーは本気でプレイするんですけど、いい意味で人生を賭けてる感じではなくて。
日本ではまだ「全身全霊でラグビーに人生をかける」みたいな考えがあったけど、オーストラリアではラグビーは人生の一部であって、1人の人間として生きることが1番大事。「やりたいことをやって生活できる」っていう考え方が、めちゃめちゃかっこいいなと思いました。
デザイナーとしての活動に繋がったリハビリ期間
そんな中、リハビリ期間中に練習メニューが書いてあるホワイトボードに絵を描いていたら、GMの四宮洋平さんに『デザイナーやったら?』って。ふざけ半分の会話だったんですけど、私はすごくワクワクして。辞めることを決断して、チームウェアを作成しているアパレルブランドでデザイナーとして働くことになりました。
それまでデザインを本格的に学んだことはなかったのですが、小さい頃の夢は「靴のデザイナー」でした。
靴は「その人の人生を見るんだったら靴を見なさい」とか言うじゃないですか。そういうエピソードを聞いて育ってきたので、靴を作るって魅力的だなって思って、小学校6年生の文集にも将来の夢で書いてました。
大人になってからも、ファッションで色の組み合わせだったり、スタイリングを考えるのが好きだったので、ワクワクしたんだと思います。
27歳で引退を決めた理由
それと、昨年立ち上げた自分のブランド『Maresta』にすべてを賭けたくなったのが一番の理由です。
後編では、彼女がなぜ「Beauty Japan」を通じてセカンドキャリアのロールモデルを目指すのか。
自身のブランド「Maresta(マーレスタ)」に込めた想いと、5月23日の日本大会に向けた熱い意気込みに迫る。
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Marestaのブランドに込められた想いや、対談内に登場したアイテムは以下の公式ページからご確認いただけます。
ブランドの最新アイテムや世界観は、公式Instagram(@maresta_jp)でも発信中
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