【浦和レッズ】選手たちの子ども時代をご紹介!3月22日(日)FC町田ゼルビア戦は小中高生が特別料金で観戦できる!

浦和レッドダイヤモンズ
チーム・協会

【©URAWA REDS】

未来のレッズファン・サポーターが、サッカーの楽しさを知るきっかけづくりの日として3月22日(日)FC町田ゼルビア戦にて開催される『GoGoReds!デー』は、小中高生なら特別料金の550円で観戦できるうえ、「はたらくのりもの」や人気マスコットが大集合、全長40mの巨大アトラクションや幻想的なシャボン玉パフォーマンスなど、親子で楽しめる体験イベントも目白押しとなっている。

そんな、子どもたちが主役とも言えるイベントにちなみ、浦和レッズの選手たちの子どものころを本人の思い出や写真とともにご紹介。さらに、町田戦を観戦する子どもたちに見せたいプレー、おすすめの観戦ポイントなどを教えてもらった。

【金子 拓郎】

【©URAWA REDS】

僕はインドアな子どもでした。外でも遊んでいましたけど、家の中で遊ぶ方が好きでしたね。でも、器械体操をやっていました。8年間くらいですかね?同時にサッカーもやっていたので、それで運動は十分だと思っていました。家でゲームをやっている方が好きでしたね(笑)。体操とサッカーは体操の方が先に始めました。幼稚園で体操をやって、気づいたら体操教室に入れられていて、小学6年生までやっていました。サッカーは小学1年生の終わりくらいでした。サッカーは兄がやっていたので、「自分もやりたい」と言ってやり始めました。兄が野球をやっていたら僕も野球をやっていたと思います。レッズのハートフルクラブにも通いました。地元の少年団は強くなかったので、楽しんでやっているという感じでした。でも、父親がコーチだったので、自分だけ怒られて泣かされていました。泣くまでやらされていました(笑)。

その中では一人でやっちゃう感じでしたけど、地区大会くらいしか通用していなかったと思います。それでも中学に上がるときにクマガヤSCに入団して、レベルが高い環境でできたことでプロを意識するようになったと思います。少年団でコーチをしていた父親から『自主練しろ』と言われてやっていましたが、サッカーは好きだったので苦ではなかったですね。それがきっと今につながっていると思います。

自分が見た試合は浦和とFCバルセロナが対戦したのを覚えています(さいたまシティカップ2005)。友達と一緒に見に行きました。当時はロナウジーニョが大好きで、生で見られると思って行ったのに、来日しなかったんですよね(笑)。それでも、楽しかったですね。

自分が子どものころはテレビもそうでしたけど、スタジアムで見て、自分もああなりたいと思ってプロを目指してサッカーを続けていました。今は自分が魅せる側ですし、技術はもちろん、熱いプレーで子どもたちに『僕も将来サッカー選手になりたい』と思ってもらいたいです。自分の特長であるドリブルや突破を見て、何か感じてもらいたいです。ドリブルは一人でも練習できますし、自分も小さいころは見よう見まねで練習していたので、そういうことに役立てたらうれしいですね。

【©URAWA REDS】

【宮本 優太】

【©URAWA REDS】

子どものころは悪ガキでしたよ。ガキ大将みたいな感じでした。あからさまな悪さはしていませんが、騒いだり、いたずらしたり、何かあったときは代表して怒られるタイプでした。サッカーを始めたのは4歳くらいだったと思います。後に母親と再婚する父と出会い、兄と一緒にサッカーを教えてもらうようになりました。父もプロを目指していたんですよ。小さいころは運動神経がめちゃくちゃ悪かったので、走るのも一番遅かったですし、全く泳げなくて、ボールを扱うスポーツなんて何もできませんでした。今もサッカー以外は全然ダメですね。卓球も全然できないし、バッティングセンターでも全然打てない。テニスもできないんですよね。だから、父からは『走ることから始めよう』と言われて、その当時からひたすら走らされていました。父が今のスタミナの源です。

始めたころは楽しいと思っていたわけでもないですし、父が「やれ」と言われて兄もやっているからやっている、みたいな感覚でした。でも、小学生になると地域では多少なりとも実力が認められるようになりましたし、そのころからプロになりたいと思っていました。現実的に考えるようになったのは(流通経済大柏)高校時代ですかね。高校2年で試合に絡めるようになって、現実的にプロになると決めました。

町田戦はたくさんの子どもたちが見に来てくれると思いますし、僕らは子どもたちに夢を与える仕事でもあります。そこは普段から大事にしていることなので、子どもたちがたくさん来る試合で記憶に残る試合をしたいです。特別なことをするわけではないですが、普段通り目立たなくても、泥臭くても、チームにとって大事なことをやり続けたいです。それが子どもたちに伝わればうれしいですね。

京都サンガF.C.でプレーしていたころ、「センターバックは身長が大きくないとダメ、ということを覆してくれて、子どもたちも勇気が出ました」という親御さんの声ももらえたので、そう思ってもらえるようなプレーをしたいです。町田戦を見に来る子で母子家庭、父子家庭の子もいるかもしれませんが、恥ずかしいことではないですし、僕自身も母親しかいない時期はありましたが環境を恨んだことはありません。そういう子たちにもレッズの試合を存分に楽しんでほしいですし、勇気を与えるプレーを見せたいです。

【©URAWA REDS】

【肥田野 蓮治】

【©URAWA REDS】

全然真面目ではなく、どちらかと言えばやんちゃな子どもでした。サッカーを始めたのは小学校1年生の終わりか小学校2年生の始めくらいだったと思います。きっかけは小学校にお父さんとキャッチボールをしにいったら、たまたまサッカーチームが練習していて、そこに友達もいて、友達のお父さんから「ボールを蹴ってみない?」と誘われたところからスタートしました。

最初は楽しいからプレーしているという感じでしたが、小学校4年生のときに地区のトレセン(選抜)に入っていて、周りのレベルが高かったので、もっと上のレベルでやりたいという気持ちになりました。それでFC東京サッカースクールのアドバンスクラスを受けて、そこで受かってからプロを目指すようになりました。

子どもたちにとって、スタジアムで試合を見ることがいい影響になるのは確かだと思います。自分も小さいころに何度か試合を見に行きましたし、中学生からはFC東京の育成組織だったので毎週行っていました。小さいころに見た試合は覚えているもので、最初に見に行ったのは横浜F・マリノスの試合でしたが、中村俊輔さんが印象に残りました。「ここでプレーしたい」と思ってもらうのがプロの仕事だと思いますし、そう思ってもらえたらうれしいですね。

町田戦ではまず全力でプレーする姿を見せたいです。子どもたちに100パーセント以上の力を出そうとする姿を見てほしいです。子どもたちは技術的なことが好きだと思いますし、ほかにもいろいろあるとは思いますが、まずは全力でプレーする姿、そしてFWなのでゴールを見せたいです。子どもはスタジアムで見た試合で活躍した選手を好きになることも多いと思いますし、僕がそうなれるように頑張ります。

【©URAWA REDS】

  • 前へ
  • 1
  • 次へ

1/1ページ

著者プロフィール

1950年に中日本重工サッカー部として創部。1964年に三菱重工業サッカー部、1990年に三菱自動車工業サッカー部と名称を変え、1991年にJリーグ正会員に。浦和レッドダイヤモンズの名前で、1993年に開幕したJリーグに参戦した。チーム名はダイヤモンドが持つ最高の輝き、固い結束力をイメージし、クラブカラーのレッドと組み合わせたもの。2001年5月にホームタウンが「さいたま市」となったが、それまでの「浦和市」の名称をそのまま使用している。エンブレムには県花のサクラソウ、県サッカー発祥の象徴である鳳翔閣、菱形があしらわれている。

新着記事

編集部ピックアップ

おすすめ記事(Doスポーツ)

記事一覧

新着コラム

コラム一覧

日本オリンピック委員会公式サイト

JOC公式アカウント