【浦和レッズ】ノゾミに望みをかける理由…銀行を辞めてサッカー界に戻ってきた池西希TD「レッズに帰れるなら…」

浦和レッドダイヤモンズ
チーム・協会

【©URAWA REDS】

 今年の1月6日に行われた、新体制発表記者会見で堀之内聖スポーツダイレクター(SD)は、池西希さんをテクニカルダイレクター(TD)として招聘した理由を質問されて、まず強化担当者に必要な能力をいくつか挙げ、続いて「しかし私が一番来てもらいたかった理由は、彼の人間力です。人を惹きつける力、そういうところです」と語った。

 私はアカデミー時代の”ノゾミ”を思い出し、心の中で「激しく同意」とつぶやいた。

「良い距離感で誰とでも話せる人」~山田直輝

 チームのムードメーカーでもあり、大人である私の声かけや取材に緊張や物怖じすることなく答え、ときには自分から親しく話しかけてくる。それがアカデミー時代の池西希選手の印象だ。非常にフレンドリーだが、馴れ馴れしくはなく、大人に対する敬意が十分感じられる態度だった。取材する側としては、チームの中にそういう“窓口的な”選手が1人か2人いると非常に助かった。

 1992年3月生まれの池西さんは、原口元気(現KベールスホットVA/ベルギー2部)と同期。レッズアカデミーが2005年にU-15年代で全国2冠、2008年にU-18高円宮杯を制した年代の一つ下だ。池西さんは下の年代からAチームに入っていた。

 その優勝年代の代表的存在である山田直輝(現FC岐阜)に当時の印象を聞くと「甲高い声でめちゃめちゃうるさかったですけど可愛いやつでした。ボランチで、何かずば抜けたプレーをするというよりは、頭を使ってプレーしてるな、という印象でした」と語る。

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 そして記者会見で堀之内SDが彼のコミュニケーション能力を高く評価していると言ったことについて「その言葉はうなずけますね。誰とでも話せるし、心地良い距離感で話せます」とSDの言葉を裏付けてくれた。

 山田たちが卒業して池西さんたちが最高学年になると、全国大会では前年ほどではないにしても、予選リーグを突破してベスト8やベスト4ぐらいまでは勝ち進んだはずだ。当時、池西さんはキャプテンとしてチームのまとめ役をやっていたのを覚えている。

 まさか、あのときのノゾミと、こんな形で一緒に仕事をすることになるとは想像もしていなかった。

銀行員からサッカー界へ~驚きとうれしさの再会

 私が池西さんと再会したのは、浦和レッズジュニアが初めて全日本U-12サッカー選手権大会に出場し、その取材に行った2019年12月、鹿児島だった。空き時間に会場内を歩いていると偶然、彼と出会った。17歳から27歳と言えば、かなり容貌が変わる人もいるだろうが、一目でわかった。

「ノゾミ?」

 言いながら、なぜ彼がここにいるんだろうと思った。早稲田大学を出て銀行に勤めていると聞いていたからだ。大会の協賛社? いや、違う。選手の保護者? ありえない。

 名前を呼んで、一拍おいて「なんでいるの?」と聞いた。

「僕いま、V・ファーレン長崎にいるんですよ」と池西さん。

 衝撃だった。メガバンクの行員という安定した身分を辞したということが驚きだった。だが、いろいろ経緯はあるだろう。それよりも違う疑問が湧いてきた。

「あれ、でも長崎って……」

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 全日本U-12サッカー選手権大会の出場チームは48。各都道府県代表の47チームと前回優勝チームだ。年代が下がれば下がるほど、Jクラブの育成チームとそれ以外のチームとの差は小さくなる。

 U-15年代では地域予選でJクラブの育成チームが敗れることは珍しくないし、この大会でもJクラブの育成チームが都道府県代表になる方が少ない。レッズジュニアも誕生して6年目でようやくこぎつけた全国出場だった。私は最初に大会プログラムを見てJクラブの育成チームを数えていた。たしかJクラブは4分の1ほどで、V・ファーレン長崎の名はなかったと記憶していた。

「そうです。長崎は予選で負けました。出てません」

 彼はU-12の指導者ということではなく、アカデミー全体を見る立場だということだった。

「どんな大会なのか見ておかなければいけないと思って来ました」

 アカデミーを担当するスタッフたちと一緒に来たという。我々からすると近いように思えるが、長崎から鹿児島は車で5時間ほどかかるらしい。

 この日、池西さんがサッカーの世界に戻ってきてたこと、そして自分の仕事に真摯に取り組む姿勢であること、この2つを知ることができた。少しうれしかった日として記憶に残っている。

レッズに何かをもたらせる自分に~なぜ今だったのか

 その後は、横浜FC時代は2021年にニッパツ三ツ沢球技場で、北九州時代は大原に用事で来たという2024年に池西さんに会った。サッカー界に戻ってきてから違うクラブに転職するたびに毎回出会っていることになる。邂逅するたびに思ったのは、「レッズに来てくれればいいのに」ということだった。実際、何人かのクラブスタッフから「声はかけているんだけど」という話も聞いていた。

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 なぜレッズに来てくれないんだろう? 当時は訝しかったが、最近、本人からその話を聞くことができた。

「レッズに帰れるなら帰りたいという気持ちはあったが、何もない状態では帰りたくなかった。浦和レッズに自分が何かをしっかりともたらせるような状態になってからクラブで仕事ができたら、と思っていた」

 3つのクラブ、7年間それぞれの場で全力を出してきた。転職にあたってはいろいろな場で出会った人との縁が大きかったと聞くが、仕事ぶりが評価されなければオファーはない。違うクラブでの仕事を経験するたびに、池西さんはアップデートされていったに違いない。

 リスペクト、そして変化を恐れない~大切な2つのこと

 さまざまな経験を経た池西さんが浦和レッズに何をもたらしてくれるか。

 プロサッカーチームの強化において大事なものを尋ねると、池西さんはまず「リスペクト」だと答えた。

 指導陣、選手、チームスタッフ。さらにクラブスタッフやパートナー、ファン・サポーター、メディア。それぞれの考え方や理想とするやり方が同じとは限らない。しかし、話し合い理解し合った上で同じ方向へ進んでいく。そこにはお互いへのリスペクトが不可欠だとしている。

「レッズに関わるもの全てが一つになる」というのはよく言われてきた言葉だが、そのために必要なものが何かをはっきり打ち出してくれた。

 もう一つは「変わっていくことを恐れないこと」だという。

 過去の良いものは残すべき。しかし過去にとらわれて変化を恐れていては、刻々と変化する社会情勢の中で前進することが難しくなる。難しい決断を迫られることもあるだろうが、「必要な変化を恐れるようなら、自分がこのポジションにいるべきじゃない」と不退転の決意だ。

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 最後に前出の山田直輝に、池西さんがレッズのTDとして戻ってきたことについてどう思うか、と尋ねたところこんな証言をしてくれた。

「あるサッカー関係者と“チーム強化”について漠然と話していたとき、その人が僕と彼の関係を知らずに『北九州の池西君て、すごいみたいだよ。志がすごく良くて……』と教えてくれたことがありました。へえ希も頑張っているんだな、と思っていたら今年、浦和へ(笑)」

 アカデミー出身のクラブスタッフは少なくない。だが、アカデミー出身で、プロ選手としての経歴がない強化担当者は池西さんが初めてだ。浦和レッズと同い年で、多彩な経歴を持つ池西TDがどうチームを前進させてくれるか。

 いつかJ1リーグのシャーレを獲得し、ノゾミと喜びの握手を交わせることを楽しみにしている。

(取材・文/清尾淳)
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著者プロフィール

1950年に中日本重工サッカー部として創部。1964年に三菱重工業サッカー部、1990年に三菱自動車工業サッカー部と名称を変え、1991年にJリーグ正会員に。浦和レッドダイヤモンズの名前で、1993年に開幕したJリーグに参戦した。チーム名はダイヤモンドが持つ最高の輝き、固い結束力をイメージし、クラブカラーのレッドと組み合わせたもの。2001年5月にホームタウンが「さいたま市」となったが、それまでの「浦和市」の名称をそのまま使用している。エンブレムには県花のサクラソウ、県サッカー発祥の象徴である鳳翔閣、菱形があしらわれている。

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