【浦和レッズ】元日本代表をお手本に…多くの監督が評価した片山瑛一の順応性「エリート街道を歩んで来ていないので」

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 代名詞はユーティリティープレーヤー。FWとして当時J2リーグのファジアーノ岡山でプロキャリアをスタートし、シャドー、サイドハーフ、サイドバック、センターバックとあらゆるポジションを前向きにこなしてきた。プロ13年目を迎える34歳の片山瑛一は、新天地の浦和レッズでも新しい挑戦に胸を躍らせている。

「これまで4バックのセンターバックはあまりやってこなかったので、楽しみながらチャレンジしています。フィールドプレーヤーでは最年長ですけど、年齢は関係ないです。周りには年下でもすごい才能を持った選手が数多くいますし、盗めるものは盗んでいきたい。このマインドは若いころからずっと変わらないですね」

 しみじみ話す言葉には実感がこもる。キャリアの分岐点は、岡山時代だった。長澤徹監督(現湘南ベルマーレ監督)にシャドーからウイングバックへのコンバートを打診され、あらためて自らを見つめ直した。川越高校、早稲田大学とFWでプレーしてきたが、心の奥底でもやもやしたものがあったという。

「自分の場所はFWでいいのかなって。そのとき、他のポジションでプレーするメリットを感じたんです。そこからより向上心が芽生え、新しいものをどんどん吸収していきたいという考え方になっていったのかなと。貴重なきっかけを与えてもらいました。選手の価値を高める上でも、いい選択でした」

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 持ち場はアウトサイドにとどまらず、3バックの一角でも起用された。小学生のころにセンターバック、中学生時代にサイドハーフの経験はあったものの、ほとんど手探り状態。立ち位置、守り方も一から勉強し、百戦錬磨のチームメートにアドバイスをもらった。お手本としたのは元日本代表のベテランたちである。

「同じポジションに加地亮さん、岩政大樹さんといった道標になる人たちがいたので、たくさん学ばせてもらいました。いろいろ聞いて、決まりごと、鉄則などを吸収しました。あとは見て、盗みましたね」

 その道のスペシャリストが集うプロの世界。付け焼き刃では通用しない。経験値の差を埋めるために考えを巡らせた。まず周りよりも戦術を深く理解し、頭の中を素早く整理することを心掛けた。配置転換で不満を覚えた記憶はない。むしろ、苦にならなかった。温和な笑みを浮かべて、過去を振り返る。

「複数の役割をこなせるようになるのが楽しくて。ミーティングでは他のポジションの選手への指示も自分のことのように聞いていました。そもそも、プライドはあまりなかったので。僕自身、サッカーのエリート街道を歩んで来ていないのも、関係しているかもしれません」

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 埼玉の川越西中学校、川越高校で育ち、全国大会には縁もなかった。早稲田大学の入学もスポーツ推薦ではない。学力だけが頼りだった。机に必死に向かい、自力で入試をクリア。入学後は入部セレクションを経て、最下層から這い上がったという。

「常に自分にベクトルを向けて、成長してきた気がします」

 夢のJリーガーになったあとも、頭を働かせながら地道に努力を重ねてきた。タイプの異なる計10人以上にのぼる監督の指針も真っ先に読み取り、多様な戦術にも順応してきた。岡山で4シーズン過ごしたのち、セレッソ大阪では韓国人の尹晶煥、スペイン人のミゲル アンヘル ロティーナと初めて外国籍指導者に触れた。さらに清水エスパルスに移ると、ブラジル人のゼ リカルド、柏レイソルでは厳しい指導で知られる名将のネルシーニョのほか、かつてレッズを率いたリカルド ロドリゲスらのもとでもプレー。

「いつも、この監督とあの監督を足した感じかな、という具合にイメージして入り、調整していく感じでした」

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 片山の言葉には説得力がある。ほとんどの指揮官に多くのポジションで重用されてきた。たとえ、スタメンでの出場機会が限られても、タスクを理解してチームに貢献している。C大阪時代の2年目は、後半の終盤から投入される“クローザー”のような役割を任された。働き盛りの20台後半だったものの、前向きに捉えた。

「まずは与えられた役割を全うしようって。そこで信頼をつかまないと、次のチャンスも来ないので。自分の中で大事にしているのは、どんなときも準備を怠らないこと。クローザーはめちゃくちゃ緊張するんです。意図が明確ですからね。

 短い時間でも成功体験を積んでいけば、自信につながります。僕の場合、一気にジャンプアップするよりもコツコツです」

 レッズでもすぐに大きなチャンスが巡ってくるかは分からない。それでも、自身の役割は冷静に把握している。沖縄キャンプではセンターバックだけではなく、サイドバックでもテストされた。開幕戦に向けて、どのタイミングでピッチに入っても対応できる準備を整える。経験豊富なベテランとして、クラブから求められるものは分かっている。

「ピッチ外のところでも貢献したいです。いまのレッズは若い選手たちが多いですから。背中で示す場合もありますが、積極的にコミュニケーションを取るようにしています。

 サッカー以外のところでも人間関係をしっかりつくっておかないと、伝わるものも伝わりません。話しやすい空気感は大事。話しをしても、受け取り方次第で変わってきますので」

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 練習風景を見るかぎり、チームにすっかり打ち解けているようだ。年下も含めてチームメートからは親しみを込めて「えいちゃん」と呼ばれ、片山の周りは笑顔が絶えない。

 1月の合流当初、チームにまだ馴染めていないときには、旧知の仲である4歳年下の“後輩”が自然と輪に入れるようにすっと助け舟を出してくれたという。

「関根(貴大)は同じ少年団なんです。一緒にはプレーしていませんが、プロになったばかりのころに正月の初蹴りで話して以来、試合で会えば、少し会話をかわすような仲でした。互いに連絡先も知っていて、レッズに決まったときには最初に連絡しましたから。

 関根も喜んでくれて。僕自身も、本当にうれしかったんです。埼玉に住むサッカー少年なら誰しもが一度は目指すクラブなので。霞ヶ関北小学校の卒業文集には『将来はレッズの選手になりたい』と書いた記憶があります。もちろん、加入しただけではダメなので、結果にフォーカスしていきます。勝ち続けるチームの雰囲気をつくっていきたいです」

 関根との縁を結んだのは鶴ヶ島FC。生まれ育った地元への愛は、昔もいまも変わらない。齢を重ねて、たどり着いた憧れの場所でも、自らの役割を全うするつもりだ。

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(取材・文/杉園昌之)
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著者プロフィール

1950年に中日本重工サッカー部として創部。1964年に三菱重工業サッカー部、1990年に三菱自動車工業サッカー部と名称を変え、1991年にJリーグ正会員に。浦和レッドダイヤモンズの名前で、1993年に開幕したJリーグに参戦した。チーム名はダイヤモンドが持つ最高の輝き、固い結束力をイメージし、クラブカラーのレッドと組み合わせたもの。2001年5月にホームタウンが「さいたま市」となったが、それまでの「浦和市」の名称をそのまま使用している。エンブレムには県花のサクラソウ、県サッカー発祥の象徴である鳳翔閣、菱形があしらわれている。

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