池西 希テクニカルダイレクター就任インタビュー「情熱と論理で浦和レッズを前へ」
これまでのキャリアを振り返りながら、さまざまな現場で培ってきた経験、価値観、そしてチーム強化に対する考えを語ってもらった。
■レッズと“同い年”、少年時代の記憶
(池西さんは1992年3月12日生まれ。レッズの誕生が1992年3月10日ですから、まったくの“同い年”ですね。浦和駒場スタジアムでのレッズの記憶はいつごろからありますか)
「覚えているのは、1995年に福田(正博)さんが得点王になった試合ですかね。ギド ブッフバルトやウーベ バインも見た記憶があります。駒場で古新聞を裂いて紙吹雪を作っていました」
(小学生になる前ですね。小学生のときは?)
「小学1年までは浦和にいましたが、2年生から6年生までは父の転勤で名古屋に住んでいました。愛知FCに所属していて、全国大会の準決勝で原口元気のいる江南南にPK負けしてベスト4でした。
だから1999年のレッズ降格は名古屋で見ていたんです。
2002年のJリーグカップ決勝は国立まで見に行きましたし、翌年の優勝した決勝も見に行きました。2004年に浦和へ戻ってからは、もちろんJリーグカップ決勝にも行きましたし、ステージ優勝したときの駒場にもいました。
中学生になるタイミングで浦和に戻り、レッズジュニアユースに加入しました。加入が決まったときは本当にうれしかったです」
(レッズのアカデミーに所属していた2004〜2009年は、トップチームが最も輝いていた時期ですね)
「当時のトップチームは、ものすごく遠い存在でした。今季もユース2人がプロ契約しましたが、彼らが感じている距離感とはまったく違ったと思います。
そして自分は弱い時代からレッズを知っていましたから、“日本代表選手を獲れるチームになったんだ”と感じました。Jリーグのスーパーなタレントが来る時代なんだな、と」
(アカデミー時代に、サッカーの技術以外で学んだことは?)
「一つは“相手に勝たなければいけない”ということです。負けることへのストレスやアレルギーのような感覚が強かったですね。
中2のときはAチームに帯同して、日本クラブユース選手権と高円宮杯で2冠を獲りました。試合にはあまり出ていませんが、高2のときも高円宮杯で優勝しました。勝つ姿勢と勝った経験は大きな財産です」
(プロを目指していたのはいつまでですか?)
「アカデミーにいる間はそういう気持ちでしたが、現実も見ていました。原口や山田直輝を見て、“こういう人たちがプロに行くんだ”と肌で感じていましたし、自分はそこには達していないと早くからわかっていました。
だから大学で再挑戦しようと思ったのですが、ネガティブではなかったです。ユースを終えるころはトップに良い選手が多く、簡単ではないと感じていました」
(大学であらためてプロを目指したのですね)
「3年までは目指していました。ただ、プロになる覚悟が足りなかったと思います。就活が前倒しだったので、3年の時期に判断が必要でした。
自分の立ち位置からすると、サッカー選手としての未来より、サッカーをベースに社会人になる方が幸せになれるかなと感じたのが正直なところです」
(早稲田大学のサッカー部で学んだことは?)
「古賀聡監督(現・明治学院大監督)が“人としてどうあるべきか”を徹底的に問う方で、本当に影響を受けました。一人のサッカー選手である前に、人としての姿勢を考えさせられました」
■銀行員として5年、サッカー界へ戻る決意
(メガバンクを辞めてサッカー界に“戻った”経緯は?)
「周りから見れば思い切った決断ですが、自分の感覚ではそうでもないんです。
サッカーで学んだことを銀行で生かし、今度は銀行で学んだことをサッカー界で生かす。そういう循環でした。
ある程度仕事ができるようになり、自分は銀行員として幸せなのかと考えるようになりました。サッカー界に自分の市場価値があるのでは、とぼんやり思い始めたんです。
“どういう大人になりたいか”を考えたとき、情熱と論理を持って自分の言葉で伝えられる人になりたいと思いました。そういう姿を見せてくれた大人が周りに多かったからです。
そして僕は本当にサッカーが好きなんです(笑)。人生を懸けるなら、サッカーの世界で勝負したいと思いました」
(ご家族の理解は?)
「妻は何も言わずに応援してくれました。妻の支えが大きかったです。
サッカー界は十分な市場で、自分の価値を出せればやっていけるという見込みもありました。フットボールと経営をつなぐことが自分の価値だと思っていました」
【長崎・横浜FC・北九州──サッカー界で学んだマネジメントの現場】
■長崎で学んだ“地域とクラブの距離”
(サッカー界へ戻ったのは2019年、V・ファーレン長崎からでした。アカデミー担当だったんですね)
「アカデミーの指導者ではなく、マネジメントです。
長崎に行って驚いたのは、外からのイメージと全然違うこと。埼玉は1都6県とつながっていますが、長崎は佐賀としか地続きではない。周囲はほぼ海で、熊本に行くにも佐賀を経由するかフェリーです。
長崎の人はその環境が当たり前なので、外の価値観を知る機会が少ない。だから“違うものを受け入れる経験をした方がいい”と思いました。
アカデミーがメインでしたが、ファン感謝祭やスポンサーイベントの台本作り、インカムをつけて裏方作業、受付の仕切りまで、何でもやりました(笑)。でもすごく面白かったし、助け合う文化がありました。今にも生きています」
■横浜FCでの“チーム統括本部”の仕事
(2021年に横浜FCのストラテジーダイレクターに就任します)
「チーム統括本部に入り、トップチームとアカデミーの担当でした。海外連携、大学との連携、選手教育、トップとアカデミーの連携など、幅広く関わりました。2022年からの2年間は強化担当をとなりました」
(2021(J1)、2022(J2)、2023(J1)と、昇格1回・降格2回を経験していますね)
「J1という注目度の高い環境で働けたことは大きな価値でした。
降格のときは、ズルズルいく恐怖を感じました。みんな一生懸命やっていたのに、結果が出ない。振り返ると“こうなっているからこうなる”という分析ができて、すごく勉強になりました。担当者として試行錯誤したアプローチには意味があったと思いたいです」
(昇格のときは?)
「自分が何かをやったというより、チームが勝つために何ができるかを考え続けた結果です。選手とスタッフに連れて行ってもらったという感覚です」
■“困難な道”を選んだ北九州での挑戦
(J1・J2の横浜FCから、J3のギラヴァンツ北九州への転職は難しい選択だったのでは?)
「いろんな選択肢の中で、一番困難な道を選ぼうと思い、ギラヴァンツを選びました」
(2024年からの北九州では、より強化に特化した仕事をされます)
「スポーツダイレクターとしてトップとアカデミーを見ました。前年はJ3最下位でしたが、JFL1位のHonda FCさん、2位のブリオベッカ浦安・市川さんは当時はライセンス未取得で、運良く残留できた状況でした。
だから“変えるチャンス”だとクラブ全体が思っていて、僕の言葉に耳を傾けてくれました。トップチームもアカデミーもクラブも変わろうとしていた時期で、その流れに乗れた感じです」
(北九州は政令指定都市としては“老舗”ですよね)
「産業として成熟した街です。人口90万人以上の都市をホームタウンに持つクラブは日本に十数クラブしかありません。
スタジアムも練習場も良い。31歳で強化責任者を任せてもらえる環境にやりがいを感じました」
■そして浦和へ──“困難な方”以外の理由
(2023年に最下位だった北九州は翌年7位、昨年は8位。そして今回のレッズへの転職も“困難な方”だったんですか)
「J3からJ2へ上げるのと、J1で優勝するのと、どちらが難しいかは比べられません。
だから今回は“より自分が熱くなれる方”を選びました」
(そこで浦和の血が池西さんを呼んだ?)
「浦和で生まれ育ち、育てていただいた方々が今もたくさんいます。その方々のために力を発揮できるなら浦和を選ぼうと思いました。
ホリさん(堀之内聖SD)から『一緒にやってほしい』と言われ、“一緒にやりたい”と思いました。
アカデミー時代に見た浦和、銀行員として見た浦和、他クラブで働いてから見た浦和。全部違いますが、すべての視野が今の自分の力になると思っています」
■強化において大事なもの──“リスペクト”
(スポーツダイレクター(SD)とテクニカルダイレクター(TD)の違いは?)
「選手・スタッフの編成、調査、獲得、オペレーション、アカデミーやU-21チームとの連携など、仕事は分けられるものではありません」
(プロサッカーチームの強化で一番大事なものは?)
「二つあるとしたら、一つは“リスペクト”です。
選手、コーチングスタッフ、チームスタッフ、クラブスタッフ、パートナー、ファン・サポーター、メディア。
“プロ”として人生を切り拓いてきた人たちが多くいます。
お互いを理解し、リスペクトし、同じ方向を向くことは簡単ではありませんが、それがないと一つにはなれないし、結果もつかめないと思います。
サッカークラブに関わることで人生が豊かになる──そのためにも、みんなでリスペクトし合いながら進むことが大事です」
「もう一つは“変化を恐れないこと”です。
人材の流動性はサッカー界だけでなく社会全体で高まっています。
サッカー界はお金が動くマーケットになり、同じ場所に居続ける方が珍しい時代です。
クラブはホームタウンがあるので急激には変わりませんが、ファン・サポーターは1年ずつ歳を取り、パートナーも変化します。その変化に合わせてクラブも変わらなければいけない。
過去の良いものを残しつつ、必要なら言語化しながら、次に向けて変化することを恐れない。
恐れるなら、このポジションにいるべきではないと思っています」
■昨シーズン7位からどう改善するか
(昨季の成績から改善するために必要なことは何ですか)
「昨季の順位が7位だったからと言って、全部が悪かったわけじゃないと思います。積み上がっているものが必ずあります。多くのみなさんがそれぞれ感じる、良いものと良くないものがあると思いますが、そこを正しく捉えて次に向かっていくことが大事だと思っています。
今をもっとより良いものにというポジティブなマインドで、今年は向かっていきたいですし、今年が終わったら来年もそういうマインドで次に向かっていくことで、少しずつ良い方向に進めるんじゃないか、と思っています。
自分がずっと何十年もレッズにいられるものでもないでしょうから、良いものを次に残し、次世代のレッズがもっと良いものになる方がうれしいです。でも、それには“今”を進めていかないといけません。そういう思いでやりたいと思います。みんなと一緒に歩んでいきたいと」
(しかし「そんなゆっくりしたペースではなく今年の優勝が最優先だ」という人もいるでしょう)
「もちろんです。しかし優勝したら間違いなく“昨季よりも良い状態”なのですから、そこを目指していくことは変わりません。自分もそうあるべきだと思います。ただ決して言い訳ではなく。一筋縄ではいかないことは間違いありません。
たとえば、常に上位を走り続けてきたクラブが、翌年には苦戦を強いられ、下位に沈むことも決して珍しくありません。一方で、下位に低迷していたクラブやJ2から昇格を果たしたクラブが、翌年には優勝争いに加わることもあります。
クラブはそれぞれ異なるプロセスを歩みながら、苦しみや困難と向き合い、それを乗り越えることで成長していくものだと思います。
この変化の多い時代だからこそ、一つひとつしか進んでいけないと思います。
■昨季苦しんできたことが改善の源に
(最後に今年のレッズで期待できる部分はどこでしょうか)
「僕が良いと思っているのは、昨年苦しみながら闘ってきた、監督、コーチ、選手たちが多くいることです。うまくいかなかったことを感じている選手がそれを改善しようとトライしていく方が成功する確率は高いです。キャンプでの練習試合を見て、昨年、自分が試合を見ていたときの感覚とだいぶ良い方にギャップがあります。また選手のコミュニケーションの量が格段に増えているとみんなが言っています。決してポジティブな声だけじゃないんですけど、そういうのも含めて選手の発信が増えているということは、きっとみんな変わろうという意識が強く、実際に変わってきているからこそ、そういうことに向き合っているチームに期待をしています」
【取材 清尾 淳】
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