明治時代の早大野球部員 三神吾朗の米国遠征記⑧ 球界の発展を願って

チーム・協会
【現代語訳】山梨日日新聞 明治44(1911)年9月2日付け

【第8回】米国野球界の印象

(左)1911年にシカゴ大学野球場「スタッグフィールド」で行われた早稲田大学との試合を伝えるポスター。(右)2008年に72年ぶりに日本で行われたシカゴ大学対早稲田大学交流戦のポスター 【早稲田スポーツ新聞会】

シカゴを出発し、東部へ
だいぶアメリカの野球について書いてきたが、あまり要領を得ない内容で申し訳ない。要するに僕が望むところは、日本の野球もアメリカの大学くらいに技術も設備も進歩すること、それだけである。

シカゴには40日間も滞在した。6月18日、懐かしいシカゴ市を後にして東部に向かい、エリー湖畔にあるクリーブランドに着いた。同地には有名なロックフェラー・ビルディングがある。ここから汽船でバッファローに行き、1日かけてあの有名なナイアガラ瀑布を見物した。

ナイアガラ瀑布での感動
瀑布はちょうどアメリカ合衆国とイギリス領カナダとの国境にあって、橋一つで郵便切手が違う。天空に翻る国旗は50余りの星(アメリカ国旗)ではなく、我が同盟国(イギリス)(※1)の旗である。何となく心強い感じがした。

瀑布の壮大さは言うまでもないが、その人工的設備の完璧さには驚く。地面に穴を掘ってエレベーターで地下に降り、トンネルを抜けて滝の裏側に行くことができるようになっているなど、その他様々な新しく巧妙な工夫が施されている。

ボストン、そしてニューヨークへ
バッファローからハートフォードへ。ここで5日間滞在してボストン見物に1日を費やした。ボストンはご承知の通り、昔は首都であったから、他の都市のように道路が整然として碁盤の目のようになっていない。京都式ではなく、東京式である。

ニューヨークには7月末日に着いた。ちょうど暑い最中で実に閉口した。毎日5、6人の死者を出すほどの暑さで、夜でさえ熟睡することはできなかった。

暑さにも驚いたが、さらに驚いたのは建築物の巨大さである。現在最も高いのがメトロポリタン・ライフ・タワー(※2)の53階。その他、威風堂々と天を突くように立っているものが甚だ多く、まるでマッチ箱を立てたような様相を呈している。だから風通しが悪い。加えて道路はアスファルトまたは石で固められているので、太陽の光線を反射する。したがって気温以上に暑く、馬までが帽子をかぶっている。

ワシントンD.C.訪問
ニューヨークからフィラデルフィア、ボルチモアにちょっと寄ってワシントンD.C.に行った。シカゴもニューヨークも商業都市であるが、ここは政治の中心であるから市街が甚だ立派で整然としている。大統領のホワイトハウスも見物し、内田大使(※3)からは日本食のご馳走にあずかった。

帰国、そして故郷への願い
帰路はセントルイス、ビュート、ミズーラ、スポケーンを経てシアトルに着いて同胞の歓迎を受け、8月1日同地を出発して、海上無事に17日、再び母国の地を踏んだのである(※4)。

終わりに臨んで、私は自分の故郷である甲州(山梨県)の人々に、運動、特に野球への興味が広まり、選手諸君の熱心な練習と相まって、甲州野球界が健全に発展することを切に願うものである。【終】
【補足説明】
※1)この時代、日英同盟(1902-1923年)が結ばれていた。
※2)当時世界一の高さを誇った摩天楼(1909年完成、213m)。
※3)内田康哉。1909年から1912年まで在アメリカ合衆国日本大使。その後、明治・大正・昭和にわたって複数回、外務大臣を務めた。
※4)三神は約4ヶ月間(3月28日出発~8月17日帰国)のアメリカ遠征を終えた。訪問都市は次の通り。横浜(3月28日出発)→ホノルル(4月7日頃到着、1泊)→サンフランシスコ(4月13日到着、約2週間滞在)→サクラメント(4月28日)→ソルトレークシティ→デンバー→シカゴ(5月5日到着、約40日間滞在)→クリーブランド(6月18日)→バッファロー(ナイアガラ瀑布)→ハートフォード(5日間滞在)→ボストン(1日見物)→ニューヨーク(7月末到着)→フィラデルフィア→ボルチモア→ワシントンD.C. →セントルイス→ビュート→ミズーラ→スポケーン→シアトル(8月1日出発)→横浜(8月17日帰国)
【原文】山梨日日新聞 明治四十四年九月二日付け
米國野球界の印象(八) 早大野球選手 三神五朗


大部米國の野球に就て書いたが、更張り要領を得ないで申譯がない、要するに僕の望む處は日本の野球も米國大學位に技倆も設備も進む事それのみである。

シカゴには四十日間も滞在した、六月十八日懐しきシカゴ市を後にして東部に向ひエリー湖畔にあるクリーブランドに着いた、同地には有名なるロツクフエロービルデングがある、此處から汽船をバフアローに行き一日彼の名高きナイヤガラ瀑布に遊んだ瀑布は丁度北米合衆國と英領カナダとの境にあつて橋一つで郵便切手が違う、天空に飜る國旗は五十有餘の星に非ずして、我同盟國の旗である。何となく氣强い感がした。瀑布の壮觀は言ふ迄もないが、その人工的設備の完全さには驚く、地面に穴を掘つてエレベーターで地下に下り隧道を抜けて瀧の後に行く事が出來る樣になつて居る事の如きその他種々の新しき巧妙なる事を應用してゐる。

バフアローからハートポード、此所で五日間滞在してボストン見物に一日を費した、ボストンは御承知の通り古は都であるから、他の都市の樣に道路が整然として、碁盤の目の如くなつて居らぬ、京都式でなく、東京式である。紐育には七月末日に着いた、恰も暑い最中で實に閉口した毎日五六の死者を出す程の暑さで夜と雖も熟睡する事は出來なかつた。暑さにも驚いたが、更に驚いたのは建築物の大なる事である、現今最も高いのがメトロポリタンの五十三階、その他巍然として天を摩して立てるものが甚だ多く、宛然マッチ箱を立てた樣な觀を呈してゐる、だから風通しが惡い、之加道路はアスファルト又は石で堅められて居るので、太陽の光線を反射する、従つて温度以上に暑く馬迄が帽子を被つてゐる。

紐育からヒラデルヒアバルチモアーに一寸寄つてワシントン府に行つたシカゴも紐も商業地であるが此處は政治の中心であるから市街が甚だ立派で整然としてゐる、大統領のホワイトハウスをも見物し、内田大使よりは日本食の御馳走に預かつた。歸途セントルイ、ビュートミゾラ、スポーケンを經てシャトルに着いて同胞の歡迎を受け八月一日同地を發して、海上無事十七日再び母國の地を踏んだのである。

終に臨んで僕は自分の故郷たる甲州の人士に運動殊に野球趣味が普及し、選手諸君の熱心なる練習と兩々相俟つて如何か甲州野球界が健全なる發達をなされん事を望むや實に切なる者がある。【終】

その後の三神吾朗について

三神吾朗は早稲田大学卒業後、アメリカに留学して日本人初の“プロ野球選手”となります。詳しくは以下の『早稲田ウィークリー』の記事をご覧下さい。

【創立記念特集】早稲田精神、開拓者のDNA 日本人初のプロ野球選手は誰か?

※リンク先は外部サイトの場合があります

「ALLNATIONS」と縦書きされたストライプのユニホームを着てバットを構える日本人の青年。早稲田大学野球部出身で1910年代前半に活躍した、資料で確認できる日本人初のプロ野球選手、三神吾朗(みかみ・ごろう)です。日本にまだプロ野球が存在していない時代、米国留学先の大学で野球部キャプテンとなり、実力が認められて独立プロ野球チーム「オール・ネーションズ」でプレーした、メジャーリーグ挑戦の先駆者ともいうべき校友です。

「ALLNATIONS」のユニホーム姿の三神吾朗(左) 【桑野順子氏提供】

早大野球部 クラウドファンディング詳細はこちらへ

【早稲田大学野球部】

野球部ファン垂涎のスペシャルリターン品をご用意

今回のクラウドファンディングのリターン品として、多くのファンの皆様、観戦者の皆様との一体感を実現するために、特製Tシャツ(クラファン限定・非売品)を用意しました。また125年の歴史を現役野球部員がご紹介して回る「野球部歴史案内&安部磯雄記念野球場見学」というスペシャルコースもご用意しております。
◆クラウドファンディングプロジェクト概要◆
【プロジェクト名】
早稲田大学野球部 世界へ!アメリカ名門大学と究める文武両道への挑戦
【募集期間】
2025年10月10日(金)9時 ~ 12月8日(月)23時
【目標金額】
第一目標:500万円 第二目標:1500万円
【注目のリターン品】
特製キーホルダー、応援Tシャツ、特製ネクタイ・スカーフ、WASEDAボールとボール台セット、野球部激励会への御招待、部員による野球部歴史&安部球場ご案内など
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著者プロフィール

「エンジの誇りよ、加速しろ。」 1897年の「早稲田大学体育部」発足から2022年で125年。スポーツを好み、運動を奨励した創設者・大隈重信が唱えた「人生125歳説」にちなみ、早稲田大学は次の125年を「早稲田スポーツ新世紀」として位置づけ、BEYOND125プロジェクトをスタートさせました。 ステークホルダーの喜び(バリュー)を最大化するため、学内外の一体感を醸成し、「早稲田スポーツ」の基盤を強化して、大学スポーツの新たなモデルを作っていきます。

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