【週刊グランドスラム304】バルセロナ五輪の四番打者・徳永耕治さんが指導する川崎西リトルシニア
徳永さんは、1987年に千葉工高から捕手として日本石油(現・ENEOS)へ入社。甲子園出場など目立つ実績がなかった不安を抱えており、「チームメイトであっても敵」と思いながら必死に練習を重ねたという。そうした取り組みが実を結び、2年目の1988年から四番に抜擢され、指名打者として出場した日本選手権では3本塁打を放つ。
その後は内野手に転向し、天性の長打力を発揮し続ける。1991年の日本選手権では24打数12安打の打率.500、3本塁打10打点をマークして打撃賞を獲得。チームの初優勝に貢献した。
そして、日本代表に選出され、1992年のバルセロナ五輪では四番ファーストで全9試合に先発出場。14安打、4本塁打、13打点といずれもチームトップの成績を上げ、銅メダルを手にした。
しかし、1993年春、それまで好調だった打撃に異変を感じたという。
「春先に必ず感じてきた“打てる”という感覚を、その年はつかめなかった」
オリンピックのような大舞台を経験すると、燃え尽き症候群に陥るアスリートが少なくない。「秋からオフにかけて練習をサボった」と振り返る徳永さんも、手応えを得られないままスタートを切ったからか、打撃の調子がなかなか上がらない。そんな状態でもチームは都市対抗出場を決めたが、スタメンには補強選手が名を連ね、徳永さんは控えに回った。試合に出られず、悔しかった。それでもチームメイトたちとともに、「仲間を助けることは、チームを助ける」と言い合いながら悔しさを抑え、優勝に辿り着いた。
2年後の1995年には自身2度目となる都市対抗優勝を経験し、翌1996年限りで現役を引退。社会人での10年間を振り返り、「日本選手権では打席からボールがよく見えたけど、都市対抗の東京ドームでは見えなかった。ドーム球場とは、相性が悪かったのかな」と苦笑した。
川崎西リトルシニアの監督となって目指すのは
この日の練習で、徳永さんが選手たちに繰り返し言っていたのは、ボールの片づけだった。シートノック中にボールを転がしてカゴに戻そうとした選手には「転がしたら、どうなる?」と問いかけ、ブルペンで足元にボールが置かれたままミットを構えた捕手には、「足元を見て」と声をかける。選手自身はもちろん、仲間にも不注意なケガをさせず、練習に打ち込めばチームは強くなる。それはまさに、徳永さんが日石時代に肌で感じた「仲間を助けることは、チームを助ける」なのである。
「私がいた頃の日石のような、厳しさがありつつも、年齢を問わずに兄弟のような雰囲気を作っていければ」
人工芝のグラウンドを一生懸命に走る選手たちを見ながら、「かわいいですよね。彼らの存在が生きがいです」としみじみ語った徳永さん。練習終了時間が近づき、片づけを始めたスタッフから食べかけの昼食をどうするか聞かれ、「最後まで食べますよ」と答えた徳永さんはこう続けた。
「明日の試合に勝つために、験を担いでカツ丼にしたんだからね」
笑みを浮かべた徳永さんは、ずっとそうやって勝負の世界で生きているのだ。
【取材・文=岩崎実幸】
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