【週刊グランドスラム261】日本製鉄瀬戸内が東京ドームで新たな一歩を踏み出す

チーム・協会

2回表に2点タイムリー安打を放った川瀬剛志(右)は、一塁ベンチのチームメイトに向かって胸のロゴを誇示する。 【写真=藤岡雅樹】

「瀬戸内になって1年目で、新しい歴史を作る」
 昨年の12月、日本製鉄広畑から改称した姫路市・日本製鉄瀬戸内の合い言葉だ。
 1939年に日本製鐵広畑として創部。母体企業の再編にともない、チーム名は富士製鐵広畑、新日本製鐵広畑、新日鐵住金広畑、日本製鉄広畑と変わっても所在地名の“広畑”はずっと残っていた。だが、2020年に日本製鉄は広畑製鉄所と呉(広島)、東予(愛媛)、大阪、堺の各事業所を統合し、瀬戸内製鉄所に。およそ3年後の昨年末、それがチーム名にも反映されたわけだ。
 都市対抗優勝が2回、準優勝も1回ある名門。佐々木恭介(元・大阪近鉄監督=現・大和高田クラブアドバイザー)、正田耕三(元・広島)、森原康平(現・横浜DeNA)ら、途切れることなくプロへも選手を送り出している。県や市ではなく、ローカルな地名で全国に知られるのは、箕島高(和歌山県)が代表格だろう。高校野球ファンにとって、有田という市名よりも、箕島という町名のインパクトが格段に強いのではないか。同様に、現在は姫路市広畑区の“広畑”も、社会人野球ファンにとって特別な響きを持っている。その名前が消えたからこそ、「新しい歴史を」刻みたかったわけだ。

山陽電鉄網干線の広畑駅がチームグラウンドの最寄り駅だ。 【写真=楊 順行】

 今回出場の32代表のうち、およそ3分の2は時代の推移とともに何らかのチーム名変更を経ている。明治安田生命も今年6月、明治安田となった。過去には、こんな例もある。1987年の都市対抗。日本楽器製造株式会社は、創立100周年にあたるこの年10月1日付でヤマハ株式会社への名称変更を決めており、それに先立ち、日本楽器からヤマハへのチーム名変更を日本野球連盟に申請。そして、この大会で優勝という最高の結果を残し、ヤマハの名は正式な改称よりひと足早く周知されることになる。

チーム名称変更元年に東京ドームに出られたのは収穫

 5年ぶりに本大会出場を果たし、まずは「新しい歴史」の一歩を踏み出した日本製鉄瀬戸内。小山市/栃木市・エイジェックとの一回戦、2回表に2点適時打を放った川瀬剛志は、塁上で『SETOUCHI』と記されたユニフォームをつかみ、喜びをアピールした。3対0と優位を保ちながら、試合は中盤まで進む。勝利を挙げれば、二回戦の相手はさいたま市・日本通運。率いるのは澤村幸明監督で、昨年1月に就任した日本製鉄瀬戸内の米田真樹監督とは熊本工高時代に三遊間を組んでいた。興味深い対戦の実現も、見えてきた。
 だが、6回裏にひとつのエラーをきっかけに5点を献上。8回表に1点差まで追いすがったが、届かなかった。試合後の米田監督。

SETOUCHIと入ったユニフォームで、米田真樹監督を先頭に新たな歴史を築く。 【写真=松橋隆樹】

「3点を取ったあとの追加点が取れなかったし、守備、バッティングともに、勝負どころで……。まだまだ全国で勝てるチームじゃないと、野球の神様が教えてくれたんでしょう」
 確かに6回裏には、先頭打者をエラーで出したほか、送球ミスも重なっての5失点で、投手陣の自責点はゼロ。そして、攻撃では4、9回以外は毎回の15残塁のもどかしさで、ここぞの場面で1本出なかったのが何とも痛い。ヤマハのように、改名元年に優勝とはならなかったが、それでも「東京ドームに出られたことは、瀬戸内元年の収穫です。エリアが広がったことで幅広く支援してもらえますし、応援の数も多かった」と米田監督は言う。
 ちなみに、チームは新日本製鐵広畑と改名した翌1971年、2回目の都市対抗制覇を果たしている。
【取材・文=楊 順行】

【左=紙版表紙・右=電子版表紙】

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著者プロフィール

1949年に設立した社会人野球を統轄する(公財)日本野球連盟の公式アカウントです。全国の企業、クラブチームが所属し、中学硬式や女子野球の団体も加盟しています。1993年から刊行している社会人野球オフィシャル・ガイド『グランドスラム』の編集部と連携し、都市対抗野球大会をはじめ、社会人野球の魅力や様々な情報を、毎週金曜日に更新する『週刊グランドスラム』などでお届けします。

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