【物語りVol.63】PR 眞壁 照男「意地でも頑張らないといけない立場」
【東芝ブレイブルーパス東京】
※スポナビでは毎日朝7時と夕方18時00分に更新します
【物語りVol.63】PR 眞壁 照男
末っ子の照男少年は、4歳から楕円球に親しんだ。地元の広島県福山市で活動する『福山ラグビースクール』に通い、中学になると広島市内の『鯉城ジュニアラグビースクール』に活動の場所を移す。
東芝ブレイブルーパス東京のチームメイトである大内真は、小学生からの顔なじみだ。彼の実家のお寺で、合宿をしたこともあったという。
3人の兄は、県内の尾道高校へ進学した。両親も学校関係者も、末弟が同じ道を辿ると考えていた。ただひとり照男だけが、まったく違う未来図を思い描いていた。
「中学生当時の僕の目には、高校のラグビーってキツいイメージがあったんですね。そのなかで、桐蔭学園は選手たちがすごく楽しそうだった。周りはみんな、尾道へ行くと思っていたでしょうし、裏切り者扱いされたんですけど(苦笑)、実は鯉城スクールから僕を含めて4人が桐蔭へ行ってるんです」
一般入試で見事に合格を勝ち取ったが、ここからが試練である。
桐蔭学園は神奈川県横浜市にあるが、眞壁は埼玉県志木市に住むことになる。立教大学へ通う2番目の兄との同居が、両親が出した条件だったのだ。通学時間は片道1時間半強に及んだ。
1、2年時はメンバー外だったが、3年になってポジションをつかんだ。いよいよ花園に挑戦できると気持ちが奮い立つが、憧れの舞台には届かない。神奈川県予選の決勝で敗れてしまった。
【東芝ブレイブルーパス東京】
1年から試合で使ってもらったが、チームは成績を残せない。関東大学対抗戦Aグループ(1部相当)で最下位に終わり、Bグループ(2部相当)に降格してしまうのだ。
「2年からは2部で戦うことになり、社会人へ行くことはないかなあと思っていました。それが、3年の夏に東芝がプロップを探しているということで、練習に参加させてもらったんです」
東芝ブレイブルーパス東京で採用を担当している望月雄太が、立教と同じ対抗戦2部の一橋大でコーチをしていた。桐蔭学園の先輩でもある。
「巡り合わせに恵まれたところはあります」
眞壁自身は加入を前提とした練習参加というよりも、練習に加えてもらっているような感覚だった。大学の日程の合間を縫って、何度も、何度も、府中市のグラウンドへ足を運んだ。
「練習には20回近く行ったと思います。最終的にもっちんさんから、『東芝ブレイブルーパス東京で一緒に優勝を目ざして頑張ろう』と言ってもらったときは、驚いたでは足りないぐらいに驚きました。もちろん、断る理由なんてありませんでした」
【東芝ブレイブルーパス東京】
「7月のトップリーグカップ戦で、1番のスタートが田中圭一さんで、2番手のがんてさん(金寛泰)がケガをして、プロップは僕しかいなくて、リサーブに入ることになったんです。それが東芝での最初の試合出場になったのですが……」
監督の瀬川智広に呼ばれて、衝撃的な宣告を受けた。
「オレはお前のことを使うつもりはなかった。ホントなら、がんてを出さなくてもいいから入れておくつもりだった」
先輩たちに比べると努力が足りていないし、意識も甘いと感じていた。瀬川の言葉は正当な評価だ、と受け止めるしかなかった。
「自分がただチームにいるだけの人間だったので、それがもう悔しくて。いま思い出しても悔しいです」
22-23シーズンにも、自分自身を見つめ直す出来事があった。加入12年目の森太志に、静かだがきっぱりとした口調でこう言われた。
「てる、何か積み上げてるのか?」
森はシーズン開幕から、1度もメンバー入りしていない。それでも、毎朝早くから体幹のトレーニングなどに取り組んでいる。眞壁は目が覚めるような思いだった。
「僕も以前はやっていたんですけど、ここ最近はやっていなかったんです。『いま試合で使ってもらえないなら、来年のためにいまから何か積み上げろ』と、太志さんに言われて、そのとおりだと思いました」
【東芝ブレイブルーパス東京】
社員選手の眞壁は、シーズンオフは社業に専念する。仕事の合間に有休をとってリフレッシュすることもあったが、思考のスイッチを切り替えた。
「ラグビーで結果を出すために、次のシーズンオフはしっかりトレーニングをしたいと思っています。12年もやっている太志さんのような選手があれだけやっているのに、4年目の僕が何もやっていない、というのは恥ずかしい。意地でも頑張らないといけない立場です」
このままでは終われない。常在戦場の心構えで、ラグビーに打ち込んでいく。
(文中敬称略)
(ライター:戸塚啓)
【東芝ブレイブルーパス東京】
- 前へ
- 1
- 次へ
1/1ページ