【浦和レッズスペシャルインタビュー】「背中から言ってもらっている感覚」柴戸 海が阿部から受け継いだ背番号と意思

浦和レッドダイヤモンズ
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一体、何度ボールを奪ったのだろう。2月12日に日産スタジアムで行われたFUJIFILM SUPER CUP 2022 川崎フロンターレ戦。2-0で快勝したチームにおいて、柴戸 海は圧倒的な存在感を放った。

リーグ屈指の攻撃力でJ1リーグを連覇している川崎を無失点どころかほぼノーチャンスに封じたのはチーム全体の成果ではあるが、柴戸が見せた球際での強度とボール奪取力はそれに大きく寄与していた。

どんなときでも全力を尽くすことが信条だ。しかし、自身だけではなく誰もが目に見えて分かる変化が、全力を尽くそうとする気持ちをさらに奮い立たせた。

「背番号は僕の中で大きいです。今まで以上にしっかりとプレーしなければいけません。下手なプレーはできません。それは今までと違うところです」

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2021年12月20日。国立競技場で天皇杯優勝の歓喜に沸いた翌日、浦和レッズの選手やスタッフは大原サッカー場に集結していた。

天皇杯決勝を最後に2021シーズンの全日程が終了し、チームはその日をもって解散。言うまでもなくクラブは以降も存在し続けるが、同じメンバーで戦うことはもう二度と、なくなった。

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室内でのミーティングを終え、ピッチで思い思いの時間を過ごす選手やスタッフたち。シーズンの思い出や翌シーズンに向けた意気込みを話したり、プライベートなことを話したり、別れを惜しんだり。思い思いの時間を過ごした後、三々五々に引き上げていく。

人もまばらになったころ、真剣な様子で話す2人の姿があった。

柴戸と阿部勇樹だった。

「海はこれからレッズの中心になっていかなければいけない存在だけど、チームを引っ張っていく存在になれるから。責任感を持っていけば大丈夫。昨日の決勝のように、毎試合覚悟を持って戦え。そうすれば大丈夫。海なら大丈夫だから」

何度「大丈夫」と言われただろう。その言葉に何度うなずいただろう。真っ直ぐに目を見つめながら柴戸は、前日に現役選手としての役割を終えたキャプテンが発する言葉の一言一言を脳裏に焼きつけていった。

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2021年12月18日。国立競技場で行われた天皇杯決勝前日のトレーニングで、柴戸はアクシデントに見舞われていた。相手のボールを奪いにいく際に、足を踏まれてしまった。

調整の仕方は人それぞれだが、柴戸は試合前日こそしっかりとプレーしなければ、試合でも力を出せないと思うタイプだった。ずっとそう信じてきた。

加えて、自分のタイミングや球際のぶつかり合いでだけではなく、相手の間合いに入ってボールを奪えることになった。それは2021シーズンの成長の一つだった。

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「全力でプレーする」ことは前提だった。そしてあの瞬間、「奪える」と思った。その2つが重なったことが仇となった。

足を踏んだ選手を責めるつもりはつゆほどもない。むしろ、自分の判断が招いたことだと自戒し、痛めた足を引きずりながらホテルへ戻った。

この状態で試合に出たらチームの迷惑になってしまうのではないか。この状態でチームを勝たせることはできるのか。他にも頼れる仲間がいるのだから、無理はしなくてもいい。無理をして大きなケガをしてはいけない。

不安で仕方がなかった。柴戸の心は欠場を訴えることに傾いていた。

その気持ちを変えた人物は、他の誰でもなかった。

「阿部さんに来てもらって、話をしました」

天皇杯決勝は阿部にとって現役生活最後の試合だった。同じポジションの柴戸が欠場すれば、ピッチで優勝の瞬間を迎えられるかもしれない。

それでも阿部は、試合に出るよう柴戸を説得した。

阿部の話を聞きながら、気持ちが変化していく。話が終わって一息ついてからではない。自分の経験を交えながら説得する阿部の言葉を聞きながら、柴戸は闘志がよみがえっていることに気付いていた。

「自分がピッチに立ってできることをやりたい、チームのために走って、闘って、チームを助けたい。そういう気持ちが阿部さんと話している中で大きくなっていったんです。出られるチャンスがあるなら出るしかない。決意が固まりました」

ケガに苦しむことも多かった。自分を犠牲にしても仲間のことを考え続けた。そんな阿部が、大ケガのリスクを顧みずに強行出場させるはずがない。そんなこと、柴戸は誰よりも分かっていた。

プレーできる状態なのであれば、タイトルを懸けた試合は何にも変え難い経験になる。阿部は誰よりもそれを知っている。そして現役選手として最後に、誰よりも柴戸に伝えたかったのだろう。

「経験がある選手だからこそ言えることだと思います。阿部さんに『一皮剥けることができる、成長できる舞台だから』と言ってもらったときに、経験というのはそういうことなんだと思いました」

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レッズに加入した2007年。阿部はAFCチャンピオンズリーグ準決勝で阿部は死力を尽くした。現在は城南FCと名前を変えた城南一和天馬と2試合を戦って決着せず、延長戦を含めた120分とPK戦で決勝進出を決めた第2戦。試合後、阿部は「もう歩けない」と座り込んだ。

浦和レッズ史上初のアジア制覇の立役者の一人となったとき、阿部は26歳だった。

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それから14年余りが経った2021年。柴戸は阿部からの説得もあって天皇杯決勝の出場を決め、ペナルティーエリア外からのボレーシュートで決勝ゴールを演出した。

レッズの3年ぶりのタイトル獲得に大きく貢献したとき、柴戸は26歳になったばかりだった。

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それから3週間ほど経ち、柴戸は阿部に電話をした。

阿部がお世話になった人たちへの引退の報告を直接することにこだわり、そのために引退発表記者会見の日をできるだけ後ろ倒ししたように、柴戸もまた自分の口で阿部に直接伝えることにこだわった。

「22番を付けさせてもらいます」

いつか22番を背負いたい。阿部が現役を退く以前から、柴戸はそう思っていた。昨季まで4シーズン背負った29番も阿部の影響だった。

「阿部選手を超えられるような選手になるという意味でも29番を付けさせていただきました」

新加入選手記者会見でそう話していた柴戸はこの4年間、阿部の背中を追い続けた。

柴戸が22番を背負えることになったのは、阿部が引退したから。空かない限りは背負うことができない。だが、空いたから簡単に背負える番号でもない。柴戸は理解していた。

22番にどれほどのおもいを重ねてきたのか。

「何から話せばいいのか…」

背番号が発表された数日後、つぶやくようにそう発してから整理するのにしばらくの時間を要したことが、その強さを表していた。

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「いずれは22番を付けたいと思っていましたが、以前はそのレベルにはありませんでした。もし阿部さんの引退がもう少し早ければ、阿部さんが引退してすぐに22番を付けることはできなかったと思います。去年の成長とこれからの期待を含めて、クラブとしても認めてくれたと思っています」

2021シーズンは成長できた実感があった。ボールを受けてからターンをして前線にパスを送るプレーは2020シーズンから少しずつ成長していたが、狭いスペースでもターンできるようになるなど、飛躍的に伸びた。

「でも、それはもともとできなかったわけではないんですよね」

技術的に向上したという評価を柴戸は否定する。

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リカルド ロドリゲス監督の下でボールを受ける前のポジショニングや体の向き、周囲の状況を把握する重要性を学んだ。

そうすることによって、ターンすべきかどうかを判断することができる。ターンできないと適切に判断できればミスは減る。自分の技術でターンできると判断できれば、狭いスペースでも問題はない。状況判断が早く、適切になったことで、周囲にはターンがうまくなったように見えたのだった。

また、ポジショニングや周囲の状況を把握することは、守備にも好影響を与えた。

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「今までは自分だけでむやみにボールを奪いにいくことがありました。それで奪えればいいですが、かわされた場合は大きなスペースを空けてしまいますし、そこから守備が崩れてしまうことがありました。でも今は、周りの状況を確認しながら、奪いにいくべきか待つべきか判断することができています」

そしてプレー面の成長に加え、2021シーズンの天皇杯、特に準決勝と決勝であらためて気付かされたこともあった。

実直で献身的にプレーする柴戸にも、欲が出ることもある。

「自分のためにプレーすることもあります。でも、そういうときはだいたい、いいプレーができません」

では、どんなときに力を発揮できるのか。柴戸は直前に歪めた口元を締め、言葉を紡いだ。

「誰かのためにプレーしたり、人のおもいを背負ったりしているときです」

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天皇杯準決勝の時点で、さまざまな選手がチームを離れることは分かっていた。その人たちのためにプレーしようと心に決めた。すると、また違う光景が浮かんでくる。真っ赤に染まったスタンド。スタジアムを揺らすほどの声。2年前までいた人たちの何人が、スタジアムに来られていないのだろう。

大事なチームメートとファン・サポーター。『仲間』のためにプレーする。

「そういうおもいでプレーしたことで良さが出たと思います。その気持ちが優勝に貢献できた理由だと思います」

人のおもいを背負う。それならば今季はもう、一つのおもいは背負っているではないか。あの人の、22番を背負って戦い続けてきた人のおもいを。

「そうです」

柴戸は力強くうなずいた。

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「良くなければ批判されますし、良ければ評価されます。プレッシャーはあります。でも、それだけの覚悟を持って22番を付けさせてもらいました。その期待を超えられるように、その期待を自分の力にしていきたいです」

憧れ続けた22番。それでも、『二番煎じ』になるつもりはない。それは他でもなく、阿部が望んでいないことだからだ。

「気負い過ぎず、重く受け止め過ぎず、海は海らしく。そうすれば大丈夫だから」

その言葉をまた心に刻み、柴戸は決意した。

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「去年以上の成長を見せていかないといけないと思います。それはプレーだけではなく、人間的な部分もそうです。阿部さんが付けていた番号なので、重みはありますが、それに捉われすぎずに、自分なりの22番にしていきたいです。いずれは『浦和レッズの22番といったら柴戸』と思ってもらえるように活躍していきたいです」

そして、ふとつぶやくように、誰かに伝えるというよりも自分に言い聞かせるように、言葉を発した。

「22番を付けているからこそ、本当に怠けられないと思います。背中から言ってもらっているような感覚なんですよ」

脳内に響く。あの声が。

「海、やれよ」

3年計画の『結実』の年。柴戸は新たな背番号とさまざまな人たちの『おもい』を背負い、毎試合覚悟を持ち、クラブの目標であるとともに『あの人』もなしえることはできなかったJ1リーグ優勝を目指す。

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「今季最初の公式戦で勝てたことはポジティブだと思います。ただ、1勝しただけです。リーグ優勝するためには、どんな過密日程だろうが年間を通して勝たなければいけませんし、そういう状況でも力を発揮できるようにしなければいけません。チームが一丸となり、選手もそうですが、クラブスタッフ、レッズに関わる全ての人が目標に向かって一丸となって突き進むことが一番大事だと思います」

そして力を込める。

「これからが本当の戦いです」

阿部に憧れ、阿部の背中を追ってきた。「まだまだ遠い」と感じたまま、その背中は消えてしまった。見えなくなった背中はイメージするしかなく、今まで以上に遠く感じるが、これからも追い続ける。

レッズに関わる全ての人が一丸となって突き進む中で大役を果たしたとき、柴戸は追い続ける背中に近づき、「浦和レッズの22番といったら柴戸」と誇れるのだろう。

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著者プロフィール

1950年に中日本重工サッカー部として創部。1964年に三菱重工業サッカー部、1990年に三菱自動車工業サッカー部と名称を変え、1991年にJリーグ正会員に。浦和レッドダイヤモンズの名前で、1993年に開幕したJリーグに参戦した。チーム名はダイヤモンドが持つ最高の輝き、固い結束力をイメージし、クラブカラーのレッドと組み合わせたもの。2001年5月にホームタウンが「さいたま市」となったが、それまでの「浦和市」の名称をそのまま使用している。エンブレムには県花のサクラソウ、県サッカー発祥の象徴である鳳翔閣、菱形があしらわれている。

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