【浦和レッズスペシャルインタビュー】「幸せなサッカー選手人生」を終えた塩田仁史。天皇杯を獲ったチームに与えた多大な影響と、決断の理由

浦和レッドダイヤモンズ
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浦和レッズが2018年大会以来4度目(三菱重工サッカー部時代を含むと通算8度目)となる天皇杯優勝を果たした前日。決勝戦のメンバーが試合会場の国立競技場で公式トレーニングを行う数時間前、その他の選手は、クラブハウスがある大原サッカー場でトレーニングを行っていた。

それが、塩田仁史の現役生活最後のトレーニングとなった。

12月18日の塩田選手の現役最後のトレーニング 【©URAWA REDS】

準決勝を戦う前、12日の時点でははっきりと決まっていなかったが、決勝進出を果たしたことでスケジュールは明確になった。

現役最後の週、現役最後のトレーニング。塩田はどんな心境で臨んでいたのか。

「泣いても笑ってもあと1試合ですからね。最後に勝って、タイトル獲りたいですね」

塩田は今にも闘いに向かいそうな表情でそう話した。

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シオさん、違うよ。聞きたいのはそういうことじゃない。

いつだってそうだった。いつだって塩田はチームのことを最優先に考えていた。

40歳になるシーズンで浦和レッズに加入し、3月にも日本代表に選出されたJリーグ屈指のGK西川周作、16歳でプロ契約した将来を嘱望される鈴木彩艶と切磋琢磨してきた。

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今季の公式戦出場数はゼロ。試合に出場できない日々が続いたが、それでもトレーニングで手を抜く日はなかった。その姿は、浜野GKコーチを含めた全員が「最高」と口をそろえるGKチームの雰囲気づくりに大きく寄与した。それだけではなく、若手を中心としたチームメートに多大な影響を与えた。

その一人であるルーキー、大久保智明は夏ごろ、阿部勇樹とともに塩田ついてこう称していた。

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「変わらないんですよ。何に対しても、どんなときでも。一回一回の練習に対して、自分がメンバーに入るか入らないかに関わらず、毎日早く来て練習の準備をして、ストレッチをして、体に刺激を入れて、チームの練習をする。メンバーから外れたときも、メンバー外の練習だから遅くていいや、ではなくて、その日も朝早く来るんです。メンバーに入らなかったから今日の練習は手を抜いてもいいや、ではなくて、自分を律することができているんです。だからこそ尊敬できますし、だからこそあの年齢まで続けられるのだと思います」

先の質問の聞き方を変えてみる。塩田仁史個人にとって、この一週間、そして最後の日は気持ちが違ったのか。

やっぱりそういうことだよね、と言わんばかりに、したり顔をする。温顔だけれど、少しだけさみしさを含んでいたように見えた。

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「やっぱり違いましたよ。もうこれで最後だ、とか、思わないことはなかったですし、いろいろな感情がありました。でも、今週はそういう空気を出さないようにしていたつもりです」

その通りだった。GKのトレーニングでは、「ナイス、シュウ!」、「ナイス、彩艶!」という塩田の声が響く。その声の主がシュートを受ける際に、「ナイス、シオ!最高だよ!スーパー!」と浜野征哉GKコーチが叫ぶ。それは今季の大原サッカー場の日常であり、最後の週も変わらなかった。

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ゲーム形式のトレーニングではボールに向かって体を投げ出し、絶え間なく味方に指示と叱咤激励の声を送る。

最後の週も、塩田は全力でトレーニングに励んでいた。試合に絡む可能性は極めて低い。その先にはもう選手としてプレーすることはない。それでも、やはり塩田は全力だった。最後の最後まで。

今季最後のトレーニングを終えてクラブハウスに引き上げようとする塩田に対し、「お疲れ様でした」と声が掛かる。それはこの日のねぎらいではなく、18年分のねぎらい。

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だが、塩田は真顔で返した。

「何言っているんですか。あと1日、あと1試合ありますよ」

そしてクラブハウスに入る瞬間、両手を突き上げて叫んだ。

「勝つぞー!」

その背中には、今にも闘いに向かいそうなオーラが漂っていた。

塩田は2004年、流通経済大学(流大)卒業後に鳴り物入りでFC東京に入団してプロキャリアをスタートさせた。

塩田J1リーグデビュー戦 【©J.LEAGUE】

ルーキーイヤーにはヤマザキナビスコカップ(現在のYBCルヴァンカップ)で4チームのホーム&アウェイの総当たりだったグループステージと現在とは違って一発勝負だった決勝トーナメントの準決勝まで全8試合に出場した。決勝戦こそ正GKで日本代表にも選出されていた土肥洋一に出番を奪われる格好となったが、FC東京の初タイトル獲得に大きく貢献した。

Jリーグデビューは2006年。奇しくも浦和レッズ戦だった。シーズンも佳境を迎えた11月26日。2試合を残して2位のガンバ大阪に勝ち点5差をつけていたレッズは、FC東京に勝利すれば優勝が決まる。

アウェイFC東京戦に集まったレッズのファン・サポーター 【©J.LEAGUE】

味の素スタジアムで行われた大一番でデビューを果たした塩田は、当時の試合前の光景を鮮明に覚えている。

「バスで移動していたら、すごい列ができていて、『え?何だ、この列は?』って思ったんです。そして味スタ周辺に来たら、アウェイのところにブワーっと人が並んでいて、その列が三鷹の方まで続いていたんですよ。レッズのファン・サポーターはとんでもないと思いましたね」

プロ3年目で味わったことのない衝撃を受けた塩田だが、無失点に抑え、レッズの優勝を阻止した。

今シーズンの新加入会見 【©URAWA REDS】

「あれから10数年経って、まさか自分がレッズの一員になるなんて思ってもいませんでしたよ。もちろんそのときもそうでしたが、オファーが来るまで想像もしていませんでした。J1リーグのチームからJ2リーグのチームに行って、昇格はしたけど降格もして、J2リーグの他のチームに移籍して。それから40歳になるシーズンにレッズに加入するなんて誰も思わないじゃないですか。関わってくれたすべての人に感謝しています」

それでも苦悩はあった。全力でトレーニングに励むことがGKチームや若手をはじめとしたチームメートに好影響を与えたのは、いわば副産物。初めからサポート役に徹するつもりなどない。塩田は日々、次の試合に出るためにトレーニングを重ねていた。それでも思い通りにはいかない日々を過ごす中、ある考えが塩田の脳裏にふと浮かんできた。

「俺、この2人と本当にポジション争いできているのかな?」

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そもそも、ボロボロになるまで現役を続けるつもりはなかった。自分が試合に出てタイトル獲得に貢献する。その意気込みでレッズに加入した。

ただ、レッズの環境は想像以上だった。メンバーに入ることだけではく、日々トレーニングを続けるだけでも大変なチームだと感じた。

「だから来年を考えたときに、僕がゲームに出るイメージが…。今年はよかったんです。加入するまではどんなチームか分からないじゃないですか。でも、来年はチームにいい影響を与えられないんじゃないかと思ったんです。みんなに『何でこいつがまだやっているんだ』と少しでも思われながらプレーしたくはありません。今のようにタイトルなどが懸かったシーズン終盤になればいろいろとやれることはあると思いますが、それはちょっと違うんじゃないかと思いました」

そして11月、塩田は決断した。もう1年プレーすることもできたが、家族とも相談した上で現役を引退することを決めた。

発表のタイミングはクラブから任された。決断してすぐに発表すれば、ホーム最終戦でファン・サポーターにあいさつすることもできた。

しかし、塩田はシーズン終了後、レッズの全日程が終わってから発表することを選んだ。

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「阿部ちゃんとマキ(槙野智章)とウガ(宇賀神友弥)がチームを去る。彼らはレッズの功労者です。本当に大きな存在です。僕が引退を発表することで、彼らの去り際を少しでもかすませるわけにはいかないと思ったんです」

サッカー人生を「トップ オブ トップではなかった」と自己評価する塩田は、同学年の阿部ともレッズ加入までは密に接することがなかった。阿部を含め、彼らとの濃密な生活を過ごしたのはたった1年。それでも、塩田は彼らがレッズの功労者だと『言われているから』ではなく、『感じたから』その決断をした。

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「だってすごいじゃないですか。どんなときだって、自分が試合に関わることが少なくなっても、同じように全力でトレーニングするんですよ。『うるせえな』と思えるくらいの選手がチームにいるって、大事なことなんですよね。マキとかは『話長えな』とか『真っ直ぐだな』とか思って、笑っちゃう」

純粋にそう感じられるのはきっと、経験だけではなく人柄もあるのだろう。でも塩田の言葉を聞いて少し違和感を覚えた。

シオさん、まるで自分のことを言っているようだよ。

「どうなんですかね?自分では分からないですよ」

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そう言って塩田は、穏やかに笑った。

天皇杯を制した試合後、塩田はチームメートやスタッフとともにスタジアムを周った。引退することを知らないファン・サポーターからメッセージを受け取ることはなかったが、それでも幸福な時間だった。

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「1年目でタイトルを獲って、最後のシーズンも最後にタイトルを獲って。獲ったというよりはみんなに連れていってもらった部分も大きいですが、それはそれで幸せでした。(伊藤)敦樹とか(江坂)任とかが『シオさん!』って呼んでくれて流大出身のみんなで写真を撮ったり、他にもいろいろな選手と写真を撮ったり。うれしかったですね」

その翌日、塩田は大原サッカー場でGKチーム4人の写真がプリントされた特別ユニフォームを着ていた。

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今季限りでレッズを去る浜野GKコーチにプレゼントするものだと聞いていた。西川、彩艶とともに浜野GKコーチにユニフォームをプレゼントして笑顔を見せる塩田。次の瞬間、「ジャーン」という言葉とともに西川がうれしそうにもう1枚のユニフォームを掲げた。

自分のものであることを知り、塩田は「なんだよー!」とうれしそうに叫んだ。

「サプライズでやられましたよ。浜野さんにプレゼントすることは知っていましたが、自分のものは全然聞いていませんでした。彩艶に聞いたら『俺は知らないです』ってすっとぼけていましたけど」

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この世にたった2枚しかない特別なユニフォームを着て、両手に花束を抱えた塩田は、ちょっと照れくさそうに笑った。

塩田よりずいぶんと明るい笑顔を見せていたのは、西川だった。

「シオさんは完全に浜野さんのだけだって思っていたみたいですね。分かったときの驚いた顔。最高でしたね」

プロになって18年間。サッカーを始めて33年間。そのうちレッズで過ごした1年間は『たった』と表現する方が正しいのかもしれない。しかし、その『たった』の期間で塩田はみんなに愛された。きっと、他のどのチームでもそうだったのだろう。

だから塩田は胸を張って言える。

「自分らしくやれたと思います。幸せなサッカー選手人生でした」

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著者プロフィール

1950年に中日本重工サッカー部として創部。1964年に三菱重工業サッカー部、1990年に三菱自動車工業サッカー部と名称を変え、1991年にJリーグ正会員に。浦和レッドダイヤモンズの名前で、1993年に開幕したJリーグに参戦した。チーム名はダイヤモンドが持つ最高の輝き、固い結束力をイメージし、クラブカラーのレッドと組み合わせたもの。2001年5月にホームタウンが「さいたま市」となったが、それまでの「浦和市」の名称をそのまま使用している。エンブレムには県花のサクラソウ、県サッカー発祥の象徴である鳳翔閣、菱形があしらわれている。

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