古橋所属のセルティック、レジェンドであるバーティ・オールドが逝去
【©CelticFC】
セルティック・フットボール・クラブは、リスボン・ライオンの一員、バーティー・オールドさんが83歳で亡くなったことを聞き、大変残念に感じています。この非常に悲しい時期に、クラブの全員の思いと祈りがバーティーさんのご家族に捧げられることを。
19555-61年と1965-71年の2回の在籍で、283試合に出場し85ゴールを記録。その間リーグ優勝を5回、4つのリーグカップ、スコティッシュカップを3回優勝。そして1967年5月25日、リスボンのエスタディオ・ナシオナルでインテル・ミラノを2-1で破り、ヨーロッパカップを手にした伝説のセルティックチームの一員でした。
バーティはこの歴史的な日に自分の役割を果たしただけでなく、インテル・ミラノの隣でチームメイトと「The Celtic Song」を歌った際の先導となったことで知られています。
セルティックの会長であるイアン・バンキールは次のように述べています。
「このたびの悲劇的な死を受けて、セルティック全員の心からの思いと祈りをバーティのご家族に捧げます。
バーティがクラブやサポーターにとってどのような存在であったかは、言葉では十分に表現できないと思います。彼は、偉大な選手であり、偉大な男であり、まさにミスター・セルティックでした。
彼はその才能で選手として最高の高みに登りましたが、それ以上に私たちにとって重要なのは彼の人間性です。
彼は、そのユーモア、性格、個性で私たちの生活を大いに豊かにしてくれました。私たちはそんな彼に永遠に感謝するでしょう。
バーティと知り合えたことは絶対的な特権であり、彼の死がすべてのセルティック・サポーターにとってどれほど悲しいことかを私は知っています。バーティは永遠にセルティックの偉大な人物であり、我々の心の中に永遠に生き続けるでしょう。
私たちは皆、彼の死を非常に悲しく悼み、もちろんバーティの家族を全面的にサポートします。バーティ、安らかにお眠りください。」
【©CelticFC】
1938年3月23日にメリーヒルで生まれたバーティは、17歳になったばかりの1955年4月2日にセルティックに入団。メリーヒル・ハープでプレーしていた時にスカウトの目に留まりました。この時の様子を彼は以下のように述べています。
「私と父はセンターサークルの中央に立っていて、父は私に振り返りこう言ったのです。『この景色を見るまで、この応援を聞くまで頑張るんだ。お前が優秀ならば観客は拍手を送り、もしセルティックで成功したならば、彼らはお前のことを決して忘れないだろう』」
その言葉は現実となりました。セルティックのサポーターはその後の数年間、バーティー・オールドに何度も拍手を送り、彼の功績は決して忘れられることはありません。
1955年にセルティックに入団したバーティは、ダンバートンにレンタル移籍した後セルティックに戻り、1957年5月1日のレンジャーズとのチャリティーカップでデビューしました。
その数ヵ月後、リーグカップの決勝戦でレンジャーズを7-1で下したセルティック。バーティは、この大会のすべてのラウンドに出場していたましたが、戦術的な理由により決勝戦には出れませんでした。バーティは、この有名な勝利を味わえなかったことを残念に思いながらも、経験豊富な当時の監督を常に認めていました。
その後1961年にイングランドのバーミンガム・シティに移籍。イングランドの4年間でリーグカップを獲得しています。
1965年1月、ジョック・ステインが監督としてクラブに復帰するわずか2ヶ月前にセルティックに戻ってきたバーティは、その後の数シーズン、ヨーロッパでも飛躍するクラブに欠かせない存在となり、ボビー・マードックと組んだ中盤は、当時の世界のサッカー界では飛び抜けた存在でした。
バーティの初ゴールは、1957年8月28日、セルティックパークで行われたイーストファイフとのリーグカップの試合で、セルティックでの最後のゴールは、1970年4月6日、デンズパークでダンディーを2-1で破った時でした。
ジョック・スタイン監督の初陣では5ゴールを記録したバーティ。また、セルティックでの最も有名な2つのゴールは、1965年のスコティッシュ・カップ決勝のダンファームリン・アスレティック戦で決めたもので、ジョック・スタイン監督の黄金時代の幕開けとなった試合でした。
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彼の "ギャラス "な性格はピッチ内外を問わず、彼の性格の重要な部分を占めており、優れたプレイヤーであるだけでなく自身の管理もできました。
こうした資質と勝利への強い意志は、ジョック・スタイン監督に生かされ、チームを数々の勝利へと導いていったのです。
バーティはその後、パーティック・シッスル、ハイバーニアン、ハミルトン、ダンバートンで監督を経験しましたが、彼の心はいつもセルティックにありました。
試合当日のセルティックパークでも、スコットランドやアイルランド、さらには海外でのサポーターの催し物でも、セルティックFC基金のイベントでも、ファンとの交流でも、バーティは常に物事の中心にいて、クラブの話をしたり、自分やチームメイトがヨーロッパの王者であり、世界最高のチームの一つであった頃の素晴らしいエピソードを喜んで語っていました。
バーティー・オールドは常にケルト人であることを愛し、セルティックのサポーターは彼を愛していました。
バーティ、安らかに。You'll Never Walk Alone.
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