【全日本実業団陸上】大会レポート〜MVPは金井・萩谷!、著名アスリートの引退に労いの拍手が響く〜
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長いキャリアを持つアスリートの参加が多いこの大会は、選手の家族や仲間が応援に駆けつける場面、あるいはベテラン選手が「現役最後の試合」として臨む場面がよく見られます。それだけに、この対応は、関係するたくさんの人々を喜ばせました。例年のような力強い「声援」は、今年も聞くことは叶いませんでしたが、会場内ではそれに代わる温かな拍手が響き、選手たちのパフォーマンスを後押ししていました。
活躍が目を引いたオリンピアンたち
1週前に行われた日本インカレで、学生オリンピアンが戦ったように、この大会にも、日本代表として東京オリンピックに出場した多くの実業団アスリートがエントリー。コンディションが整わずに出場を見合わせたり、予選でレースを終えたりするケースもあったものの、複数の選手が好成績や好記録を残し、会場やオンラインで応援したファンを魅了しました。ここでは活躍が目立った選手をご紹介します。
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このほかでは、女子1500mオリンピック代表の卜部選手は、前述の通り1500mでは日本人2番手の3位でしたが、800mでは2分06秒39で2連覇を達成。また、東京オリンピック男子4×400mリレーで日本タイ記録樹立メンバーの佐藤拳太郎選手(富士通)は、この大会には200mと両リレーに出場。200mは20秒89(+2.9)で4位、4×100mリレーでは2走を、4×400mリレーでは1走を務めて富士通のリレー2冠獲得に尽力。チームの男女総合優勝に貢献しました。
澤野、森岡、高瀬らの花道飾る
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また、男子400mハードルでは、東京オリンピック代表の安部孝駿選手(ヤマダホールディングス)は出場しなかったものの、歴代のオリンピックや世界選手権日本代表などが多数顔を揃える豪華なレースに。勝負は、2019年ドーハ世界選手権代表で、東京オリンピックは参加標準記録を突破しながら代表入りには僅かに及ばなかった豊田将樹選手(富士通)が、同じ法大の先輩で、2012年ロンドン五輪、2013・2015年世界選手権日本代表の岸本鷹幸選手(富士通)をラストで逆転し、49秒75でこの大会初優勝。岸本選手とのワン・ツー・フィニッシュで、総合優勝にも大量得点をもたらしました。
“最後のパフォーマンス”に労いの拍手響く
オリンピックイヤーというのは、ベテラン競技者の節目の年ともいえます。今回の東京オリンピックでは、1年延期という異例の事態を伴ったことも重なって、大会を終えた今季を区切りとするアスリートが多く、この全日本実業団でも、“最後の全国大会”あるいは“引退試合”として競技に臨む場面が各種目で見られました。
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1980年生まれの澤野選手は、千葉・印西中時代に棒高跳と出合い、成田高2年の1997年インターハイで全国初優勝を果たすと、翌1998年インターハイで5m40のジュニア日本記録(現U20日本記録)・高校記録を樹立して2連覇を達成。日大1年にはU20日本記録を5m50まで更新すると、3年時の2001年には5m52の学生記録をマーク。社会人1年目の2003年には5m75の日本記録を樹立し、2004年に5m80に、2005年には今も日本記録として残る5m83へと更新しました。世界大会には、初出場を果たした2003年パリ世界選手権で決勝に進出(直前のケガにより決勝は棄権)して以降、2004年アテネ五輪で再び決勝に進んで13位、2005年世界選手権で初の8位入賞を達成しました。その後、世界選手権には2007年、2009年(決勝進出)、2011年(決勝進出)、2013年、そして39歳で臨むことになった2019年と、全7大会に出場。2006年には国際陸連(現WA)が主催するグランプリシリーズを単独で転戦して、この種目で日本人初のワールドアスレティックファイナル(グランプリシリーズ上位者のみが出場できる最終戦)への進出(6位)を果たしたほか、ワールドカップで2位に。オリンピックでは、アテネ大会に続いて2008年北京大会と1大会空けて2016年リオ大会に出場、35歳で臨んだリオ大会では日本人ボウルターとして64年ぶり、自身世界大会最高位となる7位入賞を果たしています。
近年では、母校である日本大の専任講師と陸上部のコーチを務めるほか、日本オリンピック委員会(JOC)理事やアスリート委員長などの要職も担いながら競技を続けてきました。集大成として出場を目指した東京オリンピックは、最終選考会となった日本選手権で10位(5m30)に留まったことで実現はなりませんでしたが、この挑戦を最後として、今季で第一線を退くことを、自身41歳の誕生日となる9月16日に、所属先の富士通を通じて発表していました。
競技後、メディアに向けて行われたオンライン会見で、思い出に残る試合を問われた際、「全部が思い出に残っている」としながらも、活躍が期待されたなか記録なしに終わった2007年大阪世界選手権、悪天候下の壮絶なジャンプオフの末に敗れてロンドン五輪出場を逃した2012年日本選手権と、長居競技場で経験した、競技者としては悔しく、苦い思い出が残る2つの試合を挙げた澤野選手。その長居競技場で迎えた最後の試合は、家族も見守るなか5m20から試技を始めて、この高さを1回でクリアしたものの、続く5m30を攻略することができず、ここで競技を終了。澤野選手は、マットの上で観客席に向かって一礼したのちに、両手を挙げてスタンドからの拍手に応えました。試技のあとポールを受け取ってテントに戻る際に、瞳を潤ませながら「ああ、もうちょっと跳びたかったなあ」という言葉を発しましたが、競技終了後は、アスリートとしての28年間を「本当に幸せな競技人生だった」とコメント。今後は、母校・日本大の教員として陸上部のコーチングにあたるほか、富士通陸上部のアドバイザーとして、指導者としての道を進んでいくことになります。
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このほかにも、男子競歩の小林快選手(新潟アルビレックスRC)、男子3000m障害物の篠藤淳選手(山陽特殊製鋼)、女子100mの世古和選手(乗馬クラブクレイン)など、トップランカーとして活躍してきた競技者が、今季で第一線を退くことを表明しています。自国開催のオリンピックを区切りに大きく世代交代が進んだ日本陸上界は、新たな時代に突入していくこととなります。
文:児玉育美(JAAFメディアチーム)
写真:アフロスポーツ
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