【浦和レッズニュース】ルーキー伊藤敦樹の41試合の裏側にある濃密な日々…「正直、悔しい」「やっとあそこを目指せるように」

浦和レッドダイヤモンズ
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 浦和レッズは今季、公式戦42試合を戦ってきた。

 そのうち、実に41試合――。

 流通経済大学から加入した伊藤敦樹はここまで、ルーキーながらSC相模原との天皇杯3回戦を除くすべての試合に出場している。

 リーグ戦の試合数や交代枠の違いはあるにせよ、これは永井雄一郎の38試合、坪井慶介の39試合、岡野雅行の40試合をすでに上回り、レッズのルーキーとしては土橋正樹の54試合に次ぐ数字である。

岡野雅行 【©URAWA REDS】

土橋正樹 【©URAWA REDS】

 しかも残りのリーグ戦は8試合。YBCルヴァンカップと天皇杯でも勝ち進んでいるため、記録を塗り替える可能性も秘めている。

「キャンプのときから、開幕スタメンが獲れそうだなっていう手応えがありました。試合を重ねるごとに、自分の特徴を出すことができているのかなって。それが今の出場試合数に繋がっていると思います」

 レッズユース時代はトップ下を務めていただけに、攻撃のスイッチを入れるパスや前に出ていくプレーはもともと自信があった。

 プロ入り後、決して得意ではなかった守備面に磨きをかけ始めたことで、総合力の高いボランチに少しずつ近づいている。

「(柴戸)海くんのボールを奪い切るところ、間合いの詰め方、寄せ切るスピードは参考にしているというか、真似しようと思っています。以前は守備に苦手意識があったんですけど、今はボールを奪う気持ち良さを感じるようになって。守備面が自分の良さに変わりつつあります」

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 FC東京との開幕戦では、レッズの新人として2010年の宇賀神友弥以来となる開幕スタメンの座を射止めた。

 リーグ4節の横浜F・マリノス戦では自身のミスが失点に繋がり、前半で途中交代。「何も通用しなかった」とプロの洗礼を浴び、一度はレギュラーポジションを失った。

 だが、苦い経験を糧にして這い上がると、次第に中心選手としての自覚が芽生えていく。

「最初の1、2か月は、自分を出すことや周りに合わせることでいっぱいいっぱいでしたけど、試合を重ねるうちに自分の立ち位置も変わってきて、中心としてやらなきゃいけない、って感じるようになって。チームメートに声をかけるようにもなりました」

 特に6月から7月にかけては充実していた。

「その頃にあったアビスパ福岡戦や柏レイソル戦は、今思い出しても手応えがあったというか。90分通して攻守において自分のやりたいことができた試合でした。自分の中でもひと皮剥けた感覚がありましたね」

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 その後、東京五輪によってリーグが中断し、再開されてからも伊藤はスタメンに名を連ねていた。

 ある選手が台頭するまでは――。

「正直、悔しい気持ちは、あります」

 8月6日、水戸ホーリーホックから平野佑一が加入した。

 チームの頭脳となり得るJ2屈指のレジスタを、リカルド ロドリゲス監督はすぐさまスタメンに抜擢し、その後も起用し続けている。

 それに伴い、スタメンから弾かれる機会が増えたのが、伊藤だった。

「ベンチスタートが多くなるなかで、チームはいい結果を出し続けている。でも、絶対に腐っちゃいけないと思っていますし、試合に出られていないわけでもない。途中から出て自分に何ができるかを常に考えています。負けているなら点を取りに行くし、勝っているなら試合を締める。今の自分の立場をしっかり理解してやり続ければ、またチャンスが来ると思うので」

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 プロサッカー選手なら誰もがピッチの中で自分を表現したいものだろう。控えの立場を進んで受け入れる者などいない。

 だが、ベンチで過ごす時間が、何ももたらさないというわけではない。伊藤が手に入れたのは、ボランチとしてステップアップするための刺激、だった。

「佑一くんは攻撃のスイッチを入れるパスや縦パスが本当にうまいし、ワンタッチのクオリティも高い。ワンタッチでサイドに散らしたり、相手が寄せてきてもワンタッチで角度を作って変えたり。学べることが多いです。佑一くん、海くん、ふたりのいいところを身につけるのが一番ですけど、前に行く部分、ボックス・トゥ・ボックスのプレーは自分のほうができるのかなって。そうした自分の良さをもっとアピールしていきたいと思っています」

柴戸海 【©URAWA REDS】

平野佑一 【©URAWA REDS】

 刺激を与えてくれるのは、ポジションを争うライバルだけではない。

 ある日の練習では、林舞輝コーチから声をかけられた。

「ライン間で全然ボールがもらえてないねって言われたんです。それで、いろいろと映像も見たりして、こういうボールのもらい方がいいって。それから練習で意識して取り組むようにしています」

 8月25日のサンフレッチェ広島戦で平野のパスを引き出す際の、伊藤のバックステップによるポジション取りは、そうした意識の賜物だったのだ。

「前さえ向ければスルーパスには自信があるので。もらい方を意識したことが、あの得点に繋がったのかなって。ナオさん(小幡直嗣)からは、そろそろ点が欲しいねって。せめてペナルティアークまで入っていきたいねって言われているので、もっとシュートを打つ回数を増やしていきたいと思っています」

 もっともっと成長したい、まだまだやらなければいけない――。

 伊藤の向上心はとどまることを知らない。連戦を終え、日程に余裕が生まれた最近はチーム練習を終えたあと、新たな取り組みにチャレンジしている。

「ジムに通って筋トレをするようになりました。ジムだけでなく、大原(サッカー場)の筋トレルームでもグリさん(石栗建フィジカルコーチ)と一緒にやっています。もうひと回りくらい大きくして当たり負けしないように。体もしっかり絞って動けるようにしていきたいです」

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 自身が身を置くプロの世界の厳しさを、改めて感じる出来事もあった。

 年下の武田英寿と藤原優大がこの夏、出場機会を求めてレッズを離れたのである。

「特に優大は相談に乗ったりもしていて。自分ももし、夏まで出場機会を得られずにいたら、試合に出たいって絶対に思うはず。それでもレッズに残りたいという気持ちもあって、すごく悩むだろうなって。ヒデも優大もレンタル先でしっかり試合に絡んでいますし、戻ってきたときにまた一緒にプレーするのが楽しみですね。自分も今は試合に出られていますけど、いつ出られなくなるかわからない。彼らのような決断を迫られるかもしれない。改めて、厳しい世界だなって」

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 一方、さらに厳しい世界に身を置く選手たちの戦いに刺激を受けた。

 今回、東京五輪を戦ったU-24日本代表は、1998年生まれの伊藤にとって、同世代の選手たちなのだ。

 なかでも自然と意識が向けられたのは、自身と同じボランチのふたり――レッズの先輩である遠藤航と、同い年の田中碧だった。

「あのふたりはチームの中心だったし、毎試合、絶対的な存在感を放っていて。攻守において本当にうまいですし、自分とはまだまだ差がありますけど、刺激になったし、自分も追いついていかないといけないなって」

遠藤航 【©URAWA REDS】

 田中も、堂安律も、冨安健洋も同じ1998年生まれ。だが、年代別代表に選出されたことのない伊藤にとっては遠い存在だった。

「自分もプロになって試合に出続けて、やっと目を向けられるようになったというか。あそこを目指さないといけないなって、やっと思えるようになってきた、っていう感じです」

 開幕スタメンの座を射止め、激しいポジション争いを経験しながら、41試合の出場経験を積んできた。

 しっかり観察してチャンスを与えてくれる指揮官、助言してくれるコーチ、お手本となる先輩が身近にいて、刺激を与えてくれる同世代の代表選手たちもいる。

 この先、何年も続くであろう伊藤のキャリアにおいて、ルーキーイヤーはこの1年だけ。その2021年シーズンにこれだけ濃密な時間を過ごせているのは、プロサッカー選手にとって幸せなことだろう。

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 良いことも、悪いことも、すべてが今後の糧となり、自身の財産となるように――。

 プロの世界で1日1日を懸命に過ごしながら、伊藤はさまざまな経験を通して成長を続けている。

(取材/文・飯尾篤史)
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著者プロフィール

1950年に中日本重工サッカー部として創部。1964年に三菱重工業サッカー部、1990年に三菱自動車工業サッカー部と名称を変え、1991年にJリーグ正会員に。浦和レッドダイヤモンズの名前で、1993年に開幕したJリーグに参戦した。チーム名はダイヤモンドが持つ最高の輝き、固い結束力をイメージし、クラブカラーのレッドと組み合わせたもの。2001年5月にホームタウンが「さいたま市」となったが、それまでの「浦和市」の名称をそのまま使用している。エンブレムには県花のサクラソウ、県サッカー発祥の象徴である鳳翔閣、菱形があしらわれている。

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