【早大競走部】陸上全カレ×ラストイヤー特集(2)早稲田での3年間 青栁柾希×村上夏美

チーム・協会

【早稲田スポーツ新聞会】

3年間を振り返って

【早稲田スポーツ】取材・編集 朝岡里奈、布村果暖


――これまでの3年間をどう振り返りますか

村上 1年生の時は、何も分からずとにかく練習していたという感覚が強くて。ただ先輩についていくことが多かったので、1年の試合は記録よりも試合をこなす部分が大きかったです。2年からは、徐々に先輩方とコミュニケーションをとる中で、違う目的や試合に対する目標を意識的に変えていくようになったと感じます。その結果が表れたのが4年からだなと。3年生の時コロナや自粛の期間が大きく計画通りに動くことができなかったので、その反省点も生かしながら、大学4年の最初のシーズンは結構計画的に進められた年かなと感じています。

――3年間、記録としては自己ベストが出ない期間でしたが、焦りはありましたか

村上 春に自己ベストタイ記録を出しましたが、まだ自己ベストは更新していないので、今も焦りの部分はあります。最後のインカレで試合も残り少なくなってきている中で、自己ベストを出して陸上を終えられたらいいなと思っているので、次の試合も自己ベストを出せるよう頑張りたいと思います。

3年秋が転機に(青栁)

2021年東京六大学対校で跳躍を見せる青栁 【早稲田スポーツ新聞会】

――続いて青栁選手お願いします

青栁 僕は高2の日本ユースで日本一になれましたが、高3はインターハイに出場することができなくて。大学4年に至るまでベスト更新はおろか、それに近い記録も出すことができずにいました。特に結構印象的だったのは、大学1年の関カレに出場することができたのですが、同期が追い風参考とはいえ8メートル31で優勝したり、他のメンバーもいい記録を出す中、自分が思ったような跳躍ができず記録も出せず。もっといけると思っていた分絶望というか、ここまでだったのかと諦めてしまって。

そこから2、3年と自分なりに考えてやっていたのですが、すごく視野が狭かったと感じます。自分としては先生の意見を聞いて実行しているつもりでしたが、周りから見ると、自分勝手な行動ではないですが自分よがりな考えで競技に向かっていたなと振り返ります。

3年のちょうど今くらいの時期に、一つ上の漁野さん(漁野理子氏、令3政経卒)からアドバイスをいただいて。そこから礒先生(礒繁雄監督、昭58教卒=栃木・大田原)をはじめいろんな人の支えもあり、自分を見つめられるようになりました。自分の弱い部分も認められるようになってきたから、練習の姿勢も少しずつ変わってきたのかなと思います。

やっていた努力は変わらなかったのかなと思いますが、本質を少しずつ捉えられてきたのかなと思います。今年の関カレにも出場はできませんでしたが、6月にやっと自己ベストを更新することができて、最初で最後の日本インカレに出場することができます。最後そこでは自己ベストを更新しつつ、今までお世話になった分、1点でも早稲田に貢献できればなと思います。

――漁野さんからはどんなアドバイスをいただいたのですか

青栁 漁野さんも僕が努力していないとは感じていなくて、むしろ頑張っているのは分かってるけど、努力のベクトルが違うではないですが、そうしたときにもっと礒先生とコミュニケーションをとって、先生の言ってることをもっと実行した方がいい、周りが言ってることを聞き入れるじゃないですが、もっと身を任せてやってごらんと言われて。

あと、(昨年の)今の時期に幹部を決めるということで、跳躍の幹部を立てるかどうかも議論したりして、僕もチームのためと思っていろいろ動いていたのですが、結局自分のエゴで動いていた部分も、今思えばあるなと。そういったことで周りの意見に耳を向けるじゃないですが、聞いてなかったわけではないですが、(今は)自分の弱い部分も見つめられるようになったのかなと思います。

つらいときもあった

――大学3年の9月というタイミングには理由があったのですか

青栁 去年はコロナの関係で、この時期から関カレ、全カレ、日本選手権、グランプリシリーズなどいろんな大会が始まったのですが、僕は大きな大会に何一つ出られませんでした。それで幹部も交代するということで、3年生でも何も結果を出せず、自分の立場や競技の姿勢をもう一度考えた方がいいのではないかと思い、自分自身について見つめ直しました。

――練習の本質が違うという部分は、周りの意見を聞き入れることで改善していったのでしょうか

青栁 例えば走幅跳だったら、助走と踏み切りで、速いスピードで走って力強く踏み切れれば遠くに跳べます。ですが、(自分は)それより小手先の技術に目が移ってしまっていました。競技力を高めるより『パフォーマンス競技』のように。でもそうじゃなくて、もっと無茶苦茶でもいいからスピードを高めて力強く踏み切るという練習をしないとと、礒先生にも再三言われました。ずっといろいろな言い回しで言われていたと思うのですが、僕はそれに3年間気づくことができず、自分を見つめ直して周りの意見に耳を傾けたときに、その本質に気づけて、根本的に変えようと練習できたのかなと思います。

――大学3年が大きな転機だったんですね

青栁 そうですね。競走部には結果などでの厳しい部分もあるので、僕自身びくびくしながら3年間やっていたのですが、11月くらいから僕たちの代になって、森戸主将(森戸信陽主将、スポ4=千葉・市船橋)のもとスタートし、そういうのも吹っ切れて。自分の陸上競技をどう終えるか考えたとき、もっと貪欲に、分からなければ先生に聞く、周りを頼る。不安があるんだったらとことん突き詰めてやる。失敗しても、失敗を恐れずに成功を信じて頑張る。そういった気持ちの面でも自分のやるべきことに集中できたのかなと思います。冬季練習等は全然後悔もなく、今日まで頑張ってこられたと思います。

――楽しくないことはなかったとおっしゃっていましたが、記録が出なくても嫌にはならなかったのですか

青栁 結果を出さなきゃいけないという部分では嫌な部分があって、結果が出てない自分や競技が認められないのは嫌だったので、正直競走部をやめたいとか現状から逃げたい気持ちは結構あったと思います。でも将来的に指導者になりたいというような気持ちは、その状況でも消えませんでした。逆にスポーツが苦手な子や素晴らしさを知らない子に教えたいという気持ちが芽生えていたので、どこかしらでスポーツが好きという気持ちがあったのかなと。もちろんうまくいかない時は楽しいとは思えていないと思うのですが、やりたくないという気持ちはなかったかなと思います。

――村上選手も同じような経験はありますか

村上 私自身、大学3年生の時にうまくいかない時期があったので、その時につらいなという部分は結構ありました。でもその中でも、周りのライバルでもあり仲間でもある選手が励ましてくれたり支えてくれたので、そういったところに助けられたのもあって、今まで続けてこられています。やっぱりチームに貢献できる最後の年なので、そこを大事にしていきたいなと思っています。

――どのくらいの時期だったのでしょうか

村上 秋シーズンですね。記録も出せずに、インカレも出場できず。選手に選ばれずつらいという時期がありました。

「【早大競走部】陸上全カレ×ラストイヤー特集(3)最上級生としての1年間」へ続く↓

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著者プロフィール

「エンジの誇りよ、加速しろ。」 1897年の「早稲田大学体育部」発足から2022年で125年。スポーツを好み、運動を奨励した創設者・大隈重信が唱えた「人生125歳説」にちなみ、早稲田大学は次の125年を「早稲田スポーツ新世紀」として位置づけ、BEYOND125プロジェクトをスタートさせました。 ステークホルダーの喜び(バリュー)を最大化するため、学内外の一体感を醸成し、「早稲田スポーツ」の基盤を強化して、大学スポーツの新たなモデルを作っていきます。

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